更新日:2024年12月12日 10:26
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日本最大の盆踊りの一つ「阿波おどり」を踊りすぎて処罰された武士がいた!?『禁断の江戸史』より

徳島藩の知藩事として藩政改革をすすめた蜂須賀茂韶

武士 ところが、徳島藩の家老の稲田邦植(くにたね)(洲本城代・約一万四千石)は、尊攘派として急進的な行動をとっていた。  そのため、徳島藩は幕末に統一的な行動がとれなかった。そのうえ藩主・斉裕は、鳥羽・伏見の戦いの直後に48歳の若さで病死してしまう。  新藩主には斉裕の次男の茂韶(もちあき)がついたが、すでに数年前から彼は京都で政局に積極的にかかわり、朝廷に生まれた新政府内では公儀政体派の松平春嶽(しゅんがく)らと協力して、新政府軍の徳川討伐を止めようと動いた。  けれど、その建言は受け入れられず、東征軍は江戸へ向かって出立してしまう。  このため茂韶も観念し、「我が藩も東征の列に加えてほしい」と願い出る。  慶応4年(1868)3月、茂韶は新政府の議定(ぎじょう)に任じられ、刑法事務局輔を兼ね、翌明治2年に版籍奉還が実施されると、徳島藩の知藩事となり、国元へ戻って藩政改革をすすめた。

本藩の家臣が士族になり、稲田氏の家臣たちは格下の地位に

「そんな徳島藩に翌明治3年、激震が走ります。本藩徳島の家臣が士族となったのに、家老の稲田氏の家臣たちは陪臣(ばいしん)ということもあり、卒族(士族より格下の地位)とされてしまいます。  これに不満に思った稲田氏は『家中の者を士族に取り立ててほしい』と本藩に掛けあいますが聞き入れられない。するとなんと、徳島藩からの独立を新政府に働きかけたのです。  この動きに徳島藩の家臣たち(一部)が激昂、同年5月、稲田氏の屋敷やその拠点である洲本地域を襲撃し、多数の死傷者を出しました」
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「稲田騒動」の勃発が阿波おどりの全面禁止につながった
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歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。 1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。

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