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「野球選手として、一茂はもったいなかった」長嶋一茂という“前代未聞”…指導係だったヤクルト小川GMが振り返る現役時代

「何が爺やだ、コノヤロー」

 こんなこともあった。遠征に出発する直前、神宮で練習をし、風呂に入って、さあ遠征へというときに一茂が鏡の前で頭を乾かしながら、「あ、革靴忘れちゃった。どうしようかな。いいや、爺やに持ってきてもらおうっと」と言うわけ、私の横で。「てめえ、何が爺やだ、コノヤロー」って。その爺やが彼の運転手なんだ。でも、私が激しい言葉でののしっても、さらりと受け止めるような雰囲気を持っているやつだった。  テレビ番組の中で、今でもそうやって、自分が言いたいことを言いながらも周りからいじられるというのは、彼の良さなんだと思う。  そんな一茂を溺愛していたのが関根監督。関根さんからはこんなことを言われた。 「キャンプはしんどくて一茂がノイローゼになりそうだから、おまえ、ちゃんと見てやれよ」って。そんなことは絶対にないからと思いながら、「はい、わかりました」と答え、心の中では「どこがノイローゼだ、ノイローゼなんかあいつには全然あり得ないから。俺は子守かよ」とつぶやいていた。関根さんはもう孫を愛するおじいちゃん状態だった。

類まれなる身体能力

   それにしても野球選手として、一茂はもったいなかった。本当に体のパワーは驚異的で、首がやたら太くて、肩も強い。フリーバッティングの打球もすごかった。あいつがもうちょっと野球に打ち込む姿勢や考え方を変えていたら、すごい選手になったんじゃないかなと思っている。落合さんも「おまえ、親父を超える可能性があったんだよ」と言っていたらしい。  しかし、一茂はいかんせん、あの性格で、1つのことをコツコツやることが苦手。集中力も長続きせず、あれじゃちょっと無理だった。  神宮でサードのノックを受けていて、思うようにいかないと、あいつは球を球場の外まで投げてしまうんだ。はっきりいって、今風にいえば、あいつはちょっとヤバイやつだよ。そんなことをしてボールが球場の外にある車や人に当たったらどうするんだよって思うけど、そんなのを平気でやってしまう。  返す返すも彼は惜しかった。野球で成績は残さなかったけど、テレビの世界で爪痕を残し、それはそれで人生トータルなら成功者。そういうふうに考えれば、彼の人生というのは素晴らしいなと。 <TEXT/小川淳司>
1957年、千葉県習志野市生まれ。東京ヤクルトスワローズゼネラルマネージャー。1975年、千葉・習志野高校3年時、夏の甲子園にエースとして出場し、優勝。1982年、ドラフト4位でヤクルトへ入団。以後、1991年までプレーしたのち、1992年に日本ハムに移籍し、同年で現役を引退。その後、ヤクルトのスカウト、2軍コーチ、2軍監督、1軍ヘッドコーチ、1軍監督、シニアディレクターを歴任。2018年から2019年まで2度目の1軍監督を経験したあと、2020年から現職。
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