「ファースト松井秀喜」は不可!? メジャー暗黙の掟
地元の商工会議所に委ねる(https://nikkan-spa.jp/206184)メジャー屈指の「変わり者」のボス、ジョー・マドン監督なら、そんな「暗黙の掟=unwritten rule」なんてどこ吹く風。「四番・ファースト・松井秀喜」を実現してくれるかもしれない。
<取材・文・撮影/NANO編集部>
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レイズの松井秀喜が生き残りをかけ、一塁守備の練習をしている。外野守備での先発機会が限定されるうえ、現在インターリーグを戦うチームでは、DH制がない場合もあるため、一塁手としての出場を伺うことになったのだ。
高校時代は三塁手として鳴らし、巨人入り後も、内野を熱望していたほどだった松井秀喜が、メジャーでどんなに一塁手としての出場を望んでも、そこには大リーグならではの「暗黙の掟」がある。
◆「一・三塁は、白人のモノ」
1982年のドラフト会議。全米中の注目を集めたひとりの黒人高校生がいた。
彼の名はショーン・ダンストン。強肩俊足の三塁手として名を馳せていた彼は、高校生ながら全米第1位のドラフト指名を受けてシカゴ・カブスに入団した。
ところが、プロ入り後の彼の行く手を阻む、大きな壁があった。ショーンは当時のことを振り返る。
「野球選手なら、誰だってファーストやサードに憧れを抱くもんだ。もう30年も前の話だけど、全米ドラフト1位で指名を受けた時は、三塁手としての自信もあったし、もちろん三塁手でメジャー昇格を夢見たさ。ところが、いきなりルーキー・リーグでこう言われたのさ。『おい、坊や。サードは黒人の君が守るべきポジションじゃないぞ』とね」
結局、彼は三塁手から遊撃手への転向を余儀なくされた。
マイナーで着実に成長を遂げたダンストンは、プロ入り3年後の1985年、シカゴ・カブスでメジャー昇格を果たした。以来、ケガでの故障者リストを除くと、ダンストンは実に18年もの長きに渡り、内野の名手として一度もマイナー降格を味わうことなく、メジャーで1814試合に出場し続けた。しかし、憧れの三塁手では僅か11試合、一塁手でも16試合の出場に留まったがーー。
ダンストンの現役最終年は、2002年。ちょうど日本からやってきた人気者、新庄剛志のチームメイトとして、サンフランシスコ・ジャイアンツで過ごしたシーズンだった。ダンストンはそこで、肌の色が異なる新庄に、ことある毎に語りかけていたという。
「オレの時代、ファースト、サードのホットコーナー、そしてセンターは白人のモノだった。野球は結局白人のスポーツなんだ。いま、お前がセンターのレギュラーを奪おうとしていることは、歴史的に大きな意味を持っているんだ!」
思えば今も昔も、メジャーの一塁・三塁手は、マイク・シュミット、デビット・ライト、スコット・ローレン、トッド・ヘルトン等、白人ばかりが占めている。
10年連続で3割30本100打点という怪物のような成績を残したアルバート・プホルズ(ドミニカ出身=今季からエンジェルス)やヤンキースの顔、アレックス・ロドリゲス(ドミニカとアメリカの二重国籍)でもない限り、長期に渡って一塁、三塁を守り続けることは不可能なのだ。
そんななか、松井は契約中のメーカーにファーストミットを発注したという。
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