更新日:2021年09月06日 13:07
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ソニー元副社長・盛田氏がかたる戦争「特攻隊をめざす軍国少年でした」 

 今年もまた、8月15日――終戦の日がやってくる。今年で76年目、戦争体験がある人はかなり少なくなっている。そんな中、総勢18名に「戦中・戦後」体験を語ってもらったオーラル・ヒストリーブック『わたしたちもみんな子どもだった ~戦争が日常だった私たちの体験記~』(ハガツサブックス、和久井香菜子著、吉永憲史監修)が7月に上梓された。

ソニー元副社長の盛田氏は“特攻隊志願”

 冒頭に登場するのは、元ソニーの副社長である盛田正明氏。ソニー創業者の一人である盛田昭夫氏の実弟で、プロテニス選手の錦織圭や西岡良仁を育てた盛田ファンドの創設者と言えばわかる人も多いだろう。  その盛田正明氏だが、戦時中は特攻隊員になるべく「予科練」に行っていたということはご存じだろうか。
戦前の絵葉書

戦前の絵葉書。「愛国行進曲」の歌詞が書かれている(本文とは直接関係ありません)

 戦争というと「悲惨」「大空襲の火の海」「原爆」といった話ばかりがフィーチャーされがちだ。戦争という大きなくくりではなく、そこにいた個人がなにを考え、どう行動していたのか。それを知ると、歴史はもっと身近になるのではないか。  本書から、盛田正明さんのお話を抜粋する。 わたしたちもみんな子どもだった

どのみち死ぬなら、空がいい

盛田:私は実家が名古屋で、近くに陸軍の航空隊がたくさんありました。それで、子どものころには、飛行機がブンブン飛びまわるようになったんです。近くの三菱航空機ではゼロ戦も作っていましたし、飛行機の街みたいな場所で育ったもんだから、毎日、学校から帰ると家の屋根に上って空を眺めて、「俺も早く飛行機乗りたいなあ」って思っていました。入道雲の中から、飛行機がびゅーんと出てくる。あれくらいおもしろいことはないなあと思ってね。 「最先端は飛行機だ」と思っていたので、最初はパイロットに憧れ、そのうち「日本が勝つためには船ではなく飛行機を作らないといけないんだ」と考えるようになり、「世界で一番強い飛行機を作りたい。その設計技師になりたい」と夢見るようになりました。設計だけじゃおもしろくないから、自分が作った飛行機のテストパイロットを自分でするような、そういう飛行機技師になりたい。それが私の夢だったんですよ。 和久井:当時は、進学よりも空を飛びたいという気持ちのほうが強かったのですか? 盛田:もう大学に行って勉強する余裕はないなと、私には思えていたんです。それまでは飛行機の技師になりたいと思っていたけど、もう間に合わない。周りには戦死した人がいっぱいいましたしね。何がなんでもまずは戦わなきゃダメだと真剣に思っていたんです。 戦争に行ったらどっちみちいつかは死ぬんだろう。3年先か5年先かわからんけど、戦争に行けばほとんどの人は死ぬ。じゃあ自分はどうやって死にたいか、と考えたんです。私は死ぬとき陸軍で鉄砲を担いで死にたくない。海軍に行って、船に乗って溺れて死にたくない。やっぱり俺は空だ、と思ったんです。 戦況が厳しくなってきたときに、中学に海軍の将校が来て、「甲種飛行予科練習生(予科練)になりたい奴は集まれ」と、言ったんですね。私はいろいろ考えて、もう大学に行く時間はない、パイロットになって国を守らねばと思って志願したんです。お袋からはものすごく反対されたけどね。
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希望に燃える、軍国少年だった
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ライター・編集、少女マンガ研究家。スタッフ全員が何らかの障害を持つ会社「合同会社ブラインドライターズ」代表。著書に著名人の戦争体験をまとめた『わたしたちもみんな子どもだった 戦争が日常だった私たちの体験記』(ハツガサ)などがある

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