更新日:2022年02月09日 18:14
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隻眼の戦場カメラマン、沖縄、戦争の記憶。そして“島の女子会”

―[取材は愛]―

隻眼の戦場カメラマン

亀山亮さん(2019年メキシコ・カルテル抗争の殺人現場で。撮影/Jose Luis)

亀山亮さん(2019年メキシコ・カルテル抗争の殺人現場で。撮影/Jose Luis)

 写真家、亀山亮(リョウ)。この男、カッコいい。見てくれもだが、生き様がカッコいい。  1976年、千葉県生まれ。はたちの頃、中南米に渡り、メキシコ先住民の権利獲得闘争など、紛争地で撮影を始める。24歳、パレスチナで民衆蜂起を取材中、イスラエル国境警備隊が放ったゴム弾が左目に当たり失明。“隻眼の戦場カメラマン”の異名を取る。  絵に描いたような猪突猛進の青春を送った末、37歳の時にアフリカの紛争地を取材した写真集『AFRIKA WAR JOURNAL』(リトルモア)で、写真界で名高い土門拳賞を受賞した。「頭で考えるのではなく、肉体的反応で撮影する。強いイメージの写真、一枚で戦争を物語るような写真を撮る」のが信条という。  そんな亮が、去年、新たな作品を出した。『戦争・記憶』(青土社)。沖縄戦と集団自決がテーマだ。

沖縄戦は、日本独特の戦争だったんだ

亀山亮さんの作品『戦争・記憶』(筆者撮影)

亀山亮さんの作品『戦争・記憶』(筆者撮影)

 新作はひょんなきっかけで生まれた。アフリカの写真集をまとめた後、それまであれだけ写真のことばかり考えて生きてきたのに、突然どうでもよくなってしまった自分に気がついた。「俺の青春が終わったんだ」と自覚。縁あって移り住んだ八丈島で畑の作物を育て、素潜りで魚を突くという、半農半漁の自給自足的生活を過ごしていた。そこに新企画が舞い込んだ。 「海外資本のウェブメディアが日本で新しく稼働するので、何かやりませんか?」  ちょうど戦後70年の年だった。「沖縄はどうですか?」と提案して通った。本当のところは、沖縄の海で思い切り魚突きがしたいという“よこしま”な動機だったのだが。撮影機材より、ウェットスーツや銛など潜水漁の道具の方がよほど重かった。同行した担当編集者は、潜る時につける鉛のおもりを運び、「亀山くんのせいでギックリ腰になった」と恨んだという。  ところが沖縄で取材開始早々、「集団自決」の体験者に出会って、目が覚めた。 「沖縄戦は、日本独特の戦争だったんだ」  家族同士、隣人同士が、鍬やカマ、カミソリやヒモ、ロープや木の枝、あらゆるものを使って互いに手を掛け殺し合う。それは「集団自決」という名の「集団での死の強制」だった。その悲惨を、亮自身が言葉にしている。  体験者の多くは、70年がたっても口を固く閉ざし、語ろうとしない。語ることができない。それは、目で見ただけではわからない。 「地獄から生き延びてきた彼らの、奥深く傷ついた魂の傷を写真に写すことは、容易にはできない」  そう感じ、1か月ほどの沖縄取材は不完全燃焼のまま終わった。結局、海には一度も潜らなかった。 「今の日本はだんだんと昔の戦争が起きた時の状況と同じ様になってきたよ。戦争体験を今の人に話してもわからないと思う」  そんな体験者の言葉が自分にも刺さった。「なぜお前たちは、俺たちの歴史を知ろうとしないんだ」と言われているようだった。記憶の闇と孤独に向き合い続ける沖縄の人々の姿が、八丈島に戻っても自分の中にシコリとなって残り続けた。そして今度は魚突きの“邪念”は捨て、カメラだけの身軽な姿で沖縄へと通う長旅が始まった。
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八丈島のごみ処分場問題の話に、自分の取材体験を思い出した
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