更新日:2024年09月20日 20:39
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【小説・中受ウォーズ episode06】隠れていた賢者/藤沢数希

恋愛小説から投資本まで、幅広いテーマで作品を執筆し、ベストセラーを連発している作家の藤沢数希氏。その彼が次のテーマに選んだのは、「中学受験」だった。主人公は、小学6年生の春に山口から転校してきた、陽斗(はると)。「受験戦争」と形容される熾烈な競争に挑む物語が、藤沢氏の手によって濃密に立ち上がる意欲作だ。9.10(火)発売号のSPA! で第二部の開始を記念し、第一話~六話を6日連続で無料公開する。

【第六話】清掃員のお爺さんが取り出したペンは紙の上を舞い、答えを導いた

 陽斗(はると)は希望の丘公園でひとりでサッカーボールを蹴っていた。その日は、お母さんが仕事で帰宅が遅くなる日で、学校から帰っておやつを食べて、宿題を全部かたづけてから、公園へ来たのだった。  夕方の空を見上げると右側が白く光っている半月が浮かんでいた。この公園でリフティングの練習をしていると、とても心が落ち着いた。東京に引っ越してきてからの陽斗のお気に入りの場所だった。夕焼け空はすこしずつ夜の空に変わり始め、半月がすこし傾き始めた。陽斗はリズミカルにサッカーボールを蹴り続けた。 中受ウォーズ しかし、その心地よく穏やかな時間は、邪魔者たちの登場で終わってしまった。  陽斗は、公園の入り口の方に、新見と田島の二人の姿を見つけた。彼らは、鉄強会へ向かう途中のようだった。新見を中心に、田島と陽斗が知らない三人の少年たちもいた。他の小学校の生徒だろう。  彼らは公園の中の方に歩いてきた。田島はプリントを手に持ち、何やら熱心に新見たちと話していた。おそらく鉄強会の宿題でもやっているのだろう。  やがて田島と新見たちも陽斗に気づき、こっちの方にやってきた。  新見は、陽斗に対してどこか優越感を感じているようで、ニヤニヤと笑っていた。田島もまた、薄笑いを浮かべて陽斗を見ていた。三人の他の少年たちも、同じような様子で陽斗を取り囲んだ。  新見がゆっくりと陽斗の前へ歩み寄り、手を腰に当てて言った。 「こいつは、山口から出てきた田舎者の陽斗くんだ。お母さんは元気?」  彼の言葉は一瞬にして空気を冷たくした。新見は陽斗の家庭の事情を知っていたようだ。  田島はニヤリと笑い、陽斗に持っていた算数の宿題のプリントを渡した。 「俺たち、いま塾の宿題やってるんだけど、どうしても解けない問題があって。陽斗くん、手伝ってくれる?」  陽斗を取り囲んでいた他の三人はニヤニヤと笑い始めた。 「手も足も出ないだろ、陽斗くん? 田舎ではこんなこと、どれも習わないからな」  と田島が言うと、 「陽斗くんちは塾に行くお金もないんだよね。可哀想に」  と新見が憐れむように言った。 「こいつと俺たちみたいな未来のエリートとは住む世界が違うんだから、まあ、お手柔らかに」  別の小学校に通う陽斗の知らない鉄強会の生徒が勝ち誇ったように言った。  そのプリントには難解な算数の問題が並んでいた。そして、陽斗がまったく解けない様子を確認すると、彼らはバカにするように笑った。 「お前と俺たちでは頭の出来が違うんだよ」  田島が勝ち誇ったように言い放った。 「こいつなんて、ただの田舎者。勉強はぜんぜんできない。じゃあ、サッカー選手になれるとでも思ってるのかな?」  新見はそう言うと、陽斗のサッカーボールを取り上げて、思い切り遠くに蹴飛ばした。陽斗はお母さんに買ってもらった大事なサッカーボールを失くしてしまわないように、飛んで行った先を目で追った。  それを見て新見が薄ら笑いを浮かべ、田島と他の三人も大笑いした。  新見は陽斗のところに詰め寄るとシャツを掴んで、ぐいっと引き寄せた。「お前、ちょっとムカつくんだよな」  陽斗の表情は驚きと恐怖で硬直していた。  その瞬間、突如として新見の顔面に何かが直撃した。それは陽斗のサッカーボールだった。新見は驚きと痛みでうめき声を上げ、手で顔を押さえた。彼の手には鮮やかな赤色の鼻血が付いていた。 「おおっ、すまんすまん。足がすべっちまったよ」  その声の主は、以前、ここで新見たちにからかわれていた清掃員のお爺さんだった。  新見はまだサッカーボールが顔面に直撃した痛みにうめきながら、鼻血を手で拭った。怒りを抑えきれずお爺さんに向かって「何やってんだよ、糞じじい!」と声を荒らげた。  お爺さんは無邪気に笑って、彼らの間に入り、陽斗の持っていたプリントを手に取った。 「おやおや、みんなで算数の勉強でもしていたのか」  新見たちは、お爺さんの顔を見て、悪意に満ちた笑顔を浮かべた。しかし、お爺さんはそれに気づかないかのように、楽しそうに算数のプリントを眺めていた。 「こんな掃除のじじいに分かるわけないだろ」  新見の取り巻きが言った。 「勉強ができず、学歴がないバカだから、こんな掃除の仕事をしているんだろう?」  田島が吐き捨てるように言う。  お爺さんは微笑んで、プリントに並んだ算数の問題を眺めた。そして、次の瞬間、彼の目は一瞬にして鋭くなった。 「ちょっと誰か下敷きを貸してくれるかい?」  とお爺さんが言うと、ひとりの少年がカバンから下敷きを取り出しお爺さんに渡した。  お爺さんは胸ポケットから古ぼけたボールペンを取り出し、それを右手の指で握ると、左手で持った下敷きの上にプリントを載せて、ボールペンを走らせた。  そのボールペンの先が、プリントの上を舞い踊った。答えを導き出すための計算式や図形への補助線が次々とプリントに書き込まれていった。お爺さんが持っているペンがさらにプリントの上を踊りながら、瞬く間に難解な問題が解かれていく。その速さと正確さは驚くほどのものだった。  その動きは、優雅でさえあった。 「これでいいかな?」  お爺さんは、淡々とした表情で全ての問題が解き終わったプリントを新見たちに差し出した。  一瞬、周りの空気が凍りつき、新見たちの顔が一斉に青ざめた。彼らが見たものは、自分たちが解けなかった難解な問題が全て解かれているプリントだった。  新見は震える手でプリントを掴み直して、 「こんなのはカンニングに違いない。答えをどこかで手に入れたんだろう?」と吐き捨てた。  別の小学校に通う鉄強会の生徒が口を挟んだ。 「鉄強会の先生が、今回のプリントには帝都大学付属中学の誰も解けなかった入試問題が入ってるって言ってた。この爺さんは、それさえも簡単に解いてるってことは、これはインチキに決まってる」  新見たちは驚きと疑念に包まれていた。その表情には恐怖さえ交ざっていた。いったい、この爺さんはどうやってあんな短時間にこれらの問題を解き切ったんだ? 「カンニング爺さんと、田舎者の陽斗くんよ。まあ、今日のところはこれぐらいにしといてやる」  と新見は言い放つと、仲間たちとともに公園から逃げるように去っていった。 イラスト/bambeam

第7話から最新話までがビューワーで読めます
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物理学研究者、投資銀行クオンツ・トレーダー職等を経て、作家・投資家。香港在住。著書に『外資系金融の終わり』『僕は愛を証明しようと思う』『コスパで考える学歴攻略法』などがある
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