ライフ

【小説・中受ウォーズ episode05】不平等な学びの場/藤沢数希

恋愛小説から投資本まで、幅広いテーマで作品を執筆し、ベストセラーを連発している作家の藤沢数希氏。その彼が次のテーマに選んだのは、「中学受験」だった。主人公は、小学6年生の春に山口から転校してきた、陽斗(はると)。「受験戦争」と形容される熾烈な競争に挑む物語が、藤沢氏の手によって濃密に立ち上がる意欲作だ。9.10(火)発売号のSPA! で第二部の開始を記念し、第一話~六話を6日連続で無料公開する。

【第五話】「お母さん、俺も塾行きたいんよ」。夕食のとき、陽斗は本音を母にぶつけた

 陽斗の新しい学校生活が始まってから、もう三週間ほどが経とうとしていた。桜もすっかりと散っていた。初めての学校、初めてのクラスメートたち、初めての先生。新鮮さと緊張感でいっぱいだったが、陽斗は星野原小学校の日常にだんだんと慣れてきていた。  しかし、すべてが順調というわけではなかった。新見たちに目をつけられていて、彼らはたびたび陽斗をいじめてくるのだ。休み時間中のドッジボールでは集中して狙われたりした。給食の時間にわざとぶつかってきて、牛乳瓶が倒れて中身がこぼれてしまったこともあった。そして、勉強に関しても、彼らは遅れている陽斗をよくバカにしてくるのだった。 中受ウォーズ 新見や田島らは学校で習うようなことはすでに塾で勉強していて、学校での授業をまったく聞いていなかった。授業中には騒いだりして渡辺先生を困らせていた。彼らの塾のテキストに載っている問題を見ると、それは小学校で習っているものよりはるかに複雑で難しそうだった。  この日も休み時間に、授業中に塾の宿題を片付けてしまって暇になっていた田島太一が陽斗をからかいに来た。 「陽斗、これ解ける?」田島が塾の問題集から引っ張り出した算数の図形の問題を突きつける。新見と田島がニヤリと笑う。周りのクラスメイトたちは新見たちの様子を見て、陽斗に同情の目を向けた。 「えーと…」陽斗は紙の上の問題をじっと見つめた。それは塾では4年生でもできる問題らしいが、陽斗はどうやって解いていいのかさっぱり思いつかなかった。 「こんなこともわからないの?」と言いながら、田島がバカにするように笑った。「田舎者は難しい問題は解けないよな」。新見も笑いながら追い打ちをかける。  その時、さくらが立ち上がった。 「もうやめなさいよ!」とさくらが怒りを込めて田島と新見を睨みつける。「陽斗くんは塾に行っていないだけで、そんなにバカにすることないでしょ!」  さくらが怒りを込めて田島と新見を交互に見つめる。 「陽斗くんは塾に行っていないだけで、そんなにバカにすることないでしょ!」  さくらが注意したことで新見と田島は一瞬だけ黙ったが、すぐにまた陽斗をバカにするような笑みを浮かべた。  同級生のさくらがかばってくれたことで、陽斗は少し気が楽になったが、彼らが自分よりはるかに勉強が進んでいて、多くの知識を持ち、難解な問題を軽々と解けることがくやしかった。星野原小学校に転校してくる前までは、決して学校の勉強ができないわけじゃなかった。しかし、ここでは新見や田島に毎日バカにされなければいけなかった。  彼らは「鉄強会」という塾に通っていたのだ。その塾では東京の中学受験のために先取り学習を行い、陽斗がいま習っているようなことは、だいぶ前にすべて終えてしまい、中学入試に向けたより難しい問題を毎日やっていた。そのため、学校の授業は彼らにとっては簡単すぎて退屈なものでしかなかった。  陽斗は、自分も彼らと同じように多くの知識を覚えて、難しい問題を解く力を身につけたいと思った。そのために自分も塾に通いたいと思い始めていた。  学校が終わると、陽斗は家からお小遣いを持って駅の近くにある大きな書店へとひとりで向かった。途中、新見と田島が通っているという鉄強会の教室が目に入った。  それは駅の近くの雑居ビルの中にあった。陽斗はこれまで気づかなかったが、よく見ると、小さな看板が掲げられていた。あれが鉄強会なんだ、と陽斗は思った。  書店に着くと、中学受験の参考書のコーナーに直行した。そこで数冊の算数の本を手にとって中身を確かめた。その中で、『自由自在 算数』と『わかる算数』という参考書が中学受験の問題まで取り扱っていてとても良さそうだった。しかし、どちらも三千円ぐらいした。それは陽斗の一か月分のお小遣いだった。決して安い買い物ではないが、陽斗は思い切って、パラパラとめくってレイアウトが気に入った『わかる算数』の方を買うことにした。        ◇  陽斗が家に帰った時、お母さんはまだ仕事から帰宅していなかった。机に向かい、学校の教科書とノートを広げ、渡辺先生が出した宿題に取りかかった。  漢字の書き取りや算数の計算問題といった簡単な内容だったため、大急ぎで20分ほどで終わらせた。さっき買った算数の本を読みたかったからだ。わくわくしながら厚い参考書を手に取り、ページをめくり始めた。陽斗でも順番に読んでいけば理解できそうだった。この本の内容をすべて習得すれば、新見たちがやっている難しい問題もできるようになるのだろうか……と考えながら読み進めた。その時、家のドアが開く音がした。お母さんが仕事から帰ってきた。 「ただいま、陽斗」  お母さんはそのままキッチンへと向かい、夕食の準備を始めた。陽斗は、小さな勉強机で買ってきた算数の参考書を読みながら、食事の準備ができるのを待っていた。  しばらくすると、鮭の焼ける香りが部屋に広がってきた。陽斗はお母さんに呼ばれて食卓に向かった。お母さんが作った食事は、シンプルながらも心を込めて作られたものばかり。焼き立ての鮭はパリッと焼けた皮とふっくらとした身が香ばしそうだった。キャベツの千切りが添えられた目玉焼きの黄身はトロリとしていて半熟だ。そして、味噌汁には豆腐とネギがたっぷり入っていた。それらが温かいご飯と一緒に食卓に並んだ。  陽斗は「いただきます」と言い、お箸を持った。まずは味噌汁を一口すすった。その後、鮭をご飯といっしょに一口食べた。ふっくらとした身を味わいながら、その塩加減がちょうどいいことに感謝した。お母さんも食卓に座り、陽斗と一緒に食事を始めた。 「お母さん、俺も塾行きたいんよ」陽斗は食事の最中、思い切ってお母さんに告げた。驚いたような表情をしたお母さんが陽斗を見つめ、 「なんで急にそんなこと思い立ったん?」と問い返した。 「中学受験したいんよ。東京の小学校では、みんな塾に行って難しいこと勉強しちょる」と陽斗は丁寧に説明した。  お母さんはしばらく黙って考え込む。陽斗はお母さんの反応を見守った。 「陽斗、塾に行くって、うちはそんなお金ないけぇ。小学生が受験勉強なんて、そんなん聞いたことないわ。公立の中学に行けばええやろ。学校の勉強をしっかりやりんさい」  お母さんはそう結論づけた。陽斗はちょっとだけ胸が痛んだ。深く息を吸った。そして、お母さんの言葉を受け入れるしかないと思った。 「うん、わかった。お母さん」と陽斗は答えたが、自分も小学校の同級生たちと同じように塾で進んだ勉強がしたい、難しい問題を解けるようになりたい、という気持ちがまだ消えることはなかった。 イラスト/bambeam

続きはMySPA!へ!
第6話から最新話までがビューワーで読めます⇒⇒⇒⇒⇒

物理学研究者、投資銀行クオンツ・トレーダー職等を経て、作家・投資家。香港在住。著書に『外資系金融の終わり』『僕は愛を証明しようと思う』『コスパで考える学歴攻略法』などがある
おすすめ記事
ハッシュタグ