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【小説・中受ウォーズ episode02】お母さんのカルボナーラ/藤沢数希

恋愛小説から投資本まで、幅広いテーマで作品を執筆し、ベストセラーを連発している作家の藤沢数希氏。その彼が次のテーマに選んだのは、「中学受験」だった。主人公は、小学6年生の春に山口から転校してきた、陽斗(はると)。「受験戦争」と形容されるほど熾烈な競争に挑む物語が、藤沢氏の手によって濃密に立ち上がる意欲作だ。9.10(火)発売号のSPA! で第二部の開始を記念し、第一話~六話を6日連続で無料公開する。

【第二話】「いただきまーす」陽斗は大好物のパスタを頬張った

「おかえり、陽斗。遅かったけぇ、心配したわ。何しちょったん?」  玄関まで出てきたお母さんが言った。 中受ウォーズ「公園でゴミ拾いの手伝いしちょったんよ。ゴミがぶち落ちちょったけぇ」  陽斗は靴を脱ぎながら答えた。 「そうなん?」お母さんは驚きながらも優しく微笑んだ。「それはえらいけど、遅くなると心配やから、気をつけんと」 「うん、ごめん。次からはもっと早く帰るけぇ」 「新しい学校もすぐ始まるんよ」  お母さんは再び台所へ戻り、きゅうりを切っている。 「うん、わかっちょるよ。新しい学校のこともちゃんと考えちょる」 「夕飯はカルボナーラやけぇ。陽斗、好きやろ?」 「うん」と嬉しそうに陽斗は答えた。「ベーコンようけ入れて」 「わかっちょる」  丼の中の輪切りにされたきゅうりに手際よくドレッシングとツナ缶が加えられ、シンプルなサラダがもうできたようだ。  陽斗の要望通りに、厚めに切られたたくさんのベーコンが油が敷かれたフライパンに勢いよく投げ込まれた。ジュージューと食欲を掻き立てられる音がする。ベーコンに焦げ目が付くと、お母さんは今度はフライパンの中に水を注いだ。そこに塩がパッパッと加えられる。お湯が沸騰すると、太めのパスタが真ん中でふたつに折られてフライパンの中に放り込まれた。パスタを茹でている間、お母さんはツナサラダをお皿に盛り付け、手際よくカルボナーラのソースを作り始める。お茶碗に生卵がふたつ割られると、そこに冷蔵庫にあった粉チーズが入れられ、コショウも振りかけられた。卵とチーズがカタカタと勢いよくかき混ぜられた。フライパンの中のパスタは水気がなくなり残った茹で汁がトロッとしてきている。お母さんはパスタを一本口に含むと、ちょうどいい、という顔をした。フライパンの火を切ってから、作っておいた卵とチーズのソースが加えられ、熱々の茹でられたパスタと混ぜられていく。  待ちに待ったお母さんのカルボナーラの出来上がりだ。美味しそうにお皿に盛られ、テーブルまで運ばれてきた。 「いただきまーす」  陽斗が元気よく言った。  公園で掃除を手伝ってきた陽斗はお腹がぺこぺこだった。フォークを回してクリーミーなソースをパスタに絡ませると一気に口へと運び込んだ。噛みしめると、濃厚なソースとベーコンの塩気ともっちりしたパスタが口の中で混ざり合い、満足感が体中に広がっていった。 「どんな?」とお母さんが声を掛ける。陽斗は口の中にパスタがたくさん入ったまま「ぶち美味い」と答えた。  お母さんは自分のお皿に陽斗のよりもだいぶ少なく盛られたパスタを一口食べると、「今日は卵に火が入りすぎず上手にできたけぇ」と自画自賛しながらにっこりと微笑んだ。  陽斗がパスタを半分以上食べ終わると、「陽斗、サラダも食べんさい」とお母さんが言った。 「うん」と陽斗は答え、フォークをサラダの方に向けた。ドレッシングの酸味がきゅうりとツナによく絡んでおり、一口食べるとさっぱりとした味が口の中に広がった。  お母さんがリモコンを手に取りテレビをつけた。画面が明るくなると同時に、お馴染みのナレーターの声が今日のテーマを伝える。『ダーウィンが来た!』が始まった。毎週日曜日は、この番組を見るのが陽斗の習慣だった。今日のテーマは野生のさまざまな動物の繁殖についてだった。メスがオスに繁殖相手として相応しいかどうかの厳しい『試験』を課し、その試験に合格したオスだけがメスと交尾することができ、自分の子孫を残すことができる。その試験でライバルのオスに勝つためには、力やスピード、そして、時には知恵が求められた。動物のオス同士はメスに選ばれるため熾烈な争いを繰り広げ、時には命がけの闘いになることさえあった。  お母さんはすでにテーブルを綺麗に片付けて食器を洗っていた。 「そういえば、注文しとった本が届いちょるよ」 「ほんま?」陽斗は早く届いた本を読もうと残りのパスタとサラダを一気に食べ終えた。 「ほんまっちゃ。まずはお風呂に入りんさい。それから歯を磨いて、寝る準備をしてから読むんよ」 「わかっちょるよ」と陽斗は答えた。  本が入ったダンボールを開けると『人体のサバイバル1』と『やっぱりざんねんないきもの事典』が入っていた。  サバイバルシリーズは山口の小学校の図書館に置いてあった科学についての漫画で、読み出すと止まらなくなったのだ。小学校に置いてあった20冊ばかりはすぐに全部読んでしまって、図書館にない新しい本をお母さんに何冊か買ってもらっていた。今日届いたのは『人体のサバイバル1』だった。  ざんねんないきもの辞典は、動物たちのよく知られていない〝ちょっと残念〟な一面を紹介してくれる面白い本だ。かっこいいシマウマはワンワンと鳴くとか、チンパンジーは人間みたいに愛想笑いをするとか、リスはどんぐりを埋めておくのだけれどよく自分で埋めた場所を忘れてしまうとか、そんな生き物たちの残念なところを解説してくれる。陽斗はすべて持っていて、新しいものが出るたびに買ってもらっていた。これは7冊目だ。  届いた本を早く読もうと、陽斗は新しい下着を持ってお風呂に向かった。体を洗い流し、お風呂に浸かりながら歯を磨いた。       ◇  布団に入るとLEDのライトを付けて届いた本を読み始めた。人体のサバイバルは、探査機が故障して極小サイズになってしまい、探査機ごと女友達の体内に入ってしまった主人公が、人体の中を探検していくストーリーだった。なかなかこっちも面白くて一気に全部読んでしまった。次は2をお母さんに買ってもらわないと。  ざんねんないきもの辞典には、相変わらず思わず笑ってしまういきものの習性が紹介されていた。特に興味を引かれたのは、最強軍団の軍隊アリの話だ。軍隊アリは仲間のフェロモンの匂いについていき行進していく。しかし、群れで行進しているときにたまたま最前列が最後列の後になって輪になってしまうと、輪のループを死ぬまで永遠に行進してしまうという話だった。アリは何か考えているようで、周りに合わせているだけなのだ。こうした事態になると〝死の行進〟がはじまり、死ぬまで歩き続けるのだ。  時計を見るともう11時だった。そろそろ寝ようとライトを消して目を閉じると、山口の学校の友達のことが思い浮かんできた。それから、新しい学校のことを考えた。新しい友達と一緒にサッカーしたり、先生から新しいことを学んだりするのが楽しみだった。でも、学校に馴染めなかったらどうしよう、と不安な気持ちも湧いてきた。  いろいろなことを考えていると、陽斗の目は静かに重たくなり、やがて眠りに落ちていった。 イラスト/bambeam

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物理学研究者、投資銀行クオンツ・トレーダー職等を経て、作家・投資家。香港在住。著書に『外資系金融の終わり』『僕は愛を証明しようと思う』『コスパで考える学歴攻略法』などがある
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