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番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(12)

 でも、この頃に読みそして深く傾(かぶ)いていた、Jerry Rubinの“DO IT!”という本に強く影響を受けた「こころざし」だったのは認めなければなるまい。

 ――高度資本制社会の中で、遊ぶことが仕事か、それとも仕事が遊びか。この二択以外に正気は保てない。

 痺れるほどのアフォリズムだった。

 いまとなっては、Jerry Rubinを知る人もすくないはずであろう。

 Rubinは、1960年代末から70年代初頭にかけて、‘Yippies’という政治運動の活動家だった。

 文化ないしは反文化の‘Hippies’のムーヴメントではない。

 そう書いても、その違いをわかる日本の人は、当時もいまもほとんど居ないのだろうが。

 DO IT!

 とにかく、やっちゃる。

 どうせ賭場(どば)と競輪場で拾ってきた、他人さまのカネだった(笑)。

 それでわたしは、サンフランシスコ行きの航空券を購入したのである。

 失敗しても、いいのだ。

 いやむしろ、失敗上等、である。

 若いということは、やり直しができる、ということでもあった。

 そこいらへんがわからずに、ずぶずぶに保守化してしまう若い人たちが、現在の日本には多いそうだ。

 現状は、ひどい。しかしこれ以上落ちるのが心配だから、現状維持を望む。

 バッカじゃなかろか。

 ロッククライミングで失笑される「四点確保」である。

 手足四点を使って、現在地の岩にへばりついている。

 確かにその時点ではもっとも安全な方法なのかもしれないが、これではいつまで経っても目的地に到達することはない。

 そのうちに疲れて、ずるずると崩落する。

 いつか、必ず、絶対に。

 ――リスクを取らないのは、最大のリスクである。

 若かった頃も、老い先短いいまも、変わらぬわたしの信条だ。

 もっとも、いつもいつもリスクばかり取っていたら、そのうちに間違いなくパンクしてしまうのだろう。

 だから、自力で考える。

 迷い悩み調査し、そして熟考してから、あとは目を瞑って跳ぶ。

 ――見る前に跳べ。

 ではないのである。

 よく見てから、よく考えてから、最後はえいやぁ、とそれが断末魔になりかねない叫び声を上げながら跳ぶのだ。

 わたしは、そうしてきた。

 そうすることにより、これまでの人生をとても楽しんできた。

 1971年秋にたどり着いたサンフランシスコは、衝撃だった。

 小田実の『何でも見てやろう』の米西海岸での実践である。残念ながら、小田とわたしでは、教養と理解力に差がありすぎて、その足元にも及ばなかったのは認めよう。

「経験の自覚化」という作業を怠っては生き残れない賭博専業者は、けっこう読書家でもあった。この習慣は、じつは現在まで継続していて、どんなに疲れていようとも、わたしは就寝前の1時間を必ず読書に宛てている。

 サンフランシスコの衝撃は、わたしの賭博遍歴とは無関係なので、省略する。

 1か月ほどをサンフランシスコとバークレイでぶらついてから、グレイハウンドのバスで、ラスヴェガスに向かった。(つづく)

⇒続きはこちら 番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(13)

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(11)

 だるま返し(=だるま転がし)戦法の原則にしたがい、「魔の9レース」(台に載った予想屋のおっさんがそう叫んでいた)には13万円前後を一点で突っ込んだ。

 ここいらへんから、わたしの記憶は曖昧(あいまい)となってしまう。

 ノルアドレナリンもドーパミンもぴゅっぴゅっと出まくって、脳内報酬回路は快楽物質で洪水状態だった。

 もう、なにがなんだかわからない。

 わたしの存在自体が、怪しかった。

 ソーセージの肉状となった己(おのれ)が、ただただ快感に痺れている。

 神が憑依(ひょうい)したのか、はたまた降臨してわたしを導くのか。

 9R的中。

 正直に書けば、第9レースの配当金をすべて第10レースに突っ込んだわけではなかった。

 ビビッて、一部を中抜きしたのである。

 したがって、正しい意味では、「だるま返し」ではなかった。情けない。

 10R大的中。

 最終レース後の払い戻しの穴場で、周りのおっさんたちが騒いでいたのは、おぼろに覚えている。

 穴場から差し出された札束を、よれよれの上着とズボンのポケットにねじ込むと、わたしは競輪場出口に向かい走った。

 当時の払い戻しは、どんなに高額であろうが、すべて現金で穴場の窓口からだった。

 汗まみれになりながら、膨らんだポケットを掌で押さえ、わたしは競輪場の出口を目指して走った。

 強奪を恐れていたのだろう、と思う。

 競輪場や競艇場では、年に何回か「暴動」が起こる時代だった。

 どうやって帰ったかも忘れた。

 息を切らせて戻った花園町のアパートでは、はち切れんばかりに膨らんだポケットをすべてぶちまけた。六畳の畳の上に万札が300枚弱散らばった。

 1万円の元手からである。

 ビビッて中抜きなどしていなければ、えらいことになった。

 ギャンブルでは、奇蹟が起こる。

 そしてそれが、我が身に起こってしまった。

 しかも公営競走賭博という不毛・不得手な領域で。

 だからギャンブルは、怖い、恐ろしい。それゆえたとえようもなく楽しくて、厄介なのである。

 熱帯夜だったのにもかかわらず、その夜わたしは震えながらまどろんだ、と記憶する。大勝したのだが、というか大勝したゆえに、熟睡なんてできゃしない。

 朝日が昇ると、枕の下の札束をもう一度数えなおした。間違いない。1万円札が300枚近くあった。

 翌日は決勝戦。

 でもわたしは水道橋(後楽園競輪場があった場所)に行かなかった。

 その代わりに、靖国通りの厚生年金会館に面した小さな郵便局に向かったのである(笑)。

 いまと異なり、二十歳前後のガキが、郵便局の窓口に300枚弱の1万円紙幣をぽんと出しても、なにも訊かれずそのまま通帳に記載してくれた。

 現在だと、わずか100万円程度の現金の送入金でも、金融機関の職員はいろいろと質問してくる。

 わたしは、

 ――ギャンブル用のおカネ。なんか文句あるの?

 と答えることにしているのだが。

 話を戻す。

 これでユービン貯金の通帳に書き込まれた金額が、アトサキ賭場での勝ち金を含めて、400万円を超えた。

 当時、大企業に就職した新卒の年収の、軽く10倍以上である。

 よし、やったる。

 なにを、やったるのか?

 自分でもよくわからなかった。(つづく)

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番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(10)

「麻雀で負けたら(盆には行かず)蟄居(ちっきょ)」とは、生活費を賭博で稼ぐ自分に対し、自らが課した破戒厳禁のルールだった。

 当たり前の話だが、アトサキの盆では勝つこともあるし、負けることもある。

 正確な記録は残していない。しかし総計してみれば、負けた時の方が圧倒的に多かったはずだ。

 アトサキの盆で負けても、そもそもそれは渋谷宇田川町か新宿区役所通りの雀荘で拾ってきた、他人のゼニである。プレッシャーはすくなかった。

 そしてわたしは、勝ったらそのカネを、前述した理由によって次回の戦費としない。

 毎回まいかい、賭場(どば)を洗って(=終わって)下駄を履けば、そこで収支を閉じた。

 一度限りの独立試行である。

 勝ったカネは、ユービン貯金に回した。

 そこいらへんにごろごろいる「勝負師」たちと、生き残ったわたしとの違いがもしあったとするなら、それは郵便局である(笑)。

 通帳に書き込まれる金額を見るのが楽しみだった。

 つくづく可愛げのないガキである。

 一回数千円から2万円程度の預金でも、チリも積もればなんとやら、いつしか口座残高が100万円を超した。

 当時のわたしの賭博ライフは、麻雀・バッタまきをメインとしながらも、競輪・競馬という公営競走にもすこしだけだが手を出していた。

 ただし公営賭博では、勝てない。

 当たり前だった。25%超の控除を差っ引く賭博にどっぷりと浸かり込んで、それに勝てると考える方がおかしいのだ。

 それゆえわたしは、公営賭博の本場(ほんじょう)には、捨てるつもりの1万円しか持ち込まなかった。

 戦法は「だるま返し」あるいは「だるま転がし」と呼ばれるもの。これひとスジである。

 1万円の一本勝負。

 取れば、その勝ち分も次のレースで一本勝負。

 これを3レース繰り返す。

 なぜだか知らないけれど、当時この戦法を「メルボルン」と呼んでいる人たちも居た。メルボルン・オリンピックでの三段跳び競技と関係でもしていたのだろうか。

 白いさらしが張られた盆では自らに固く禁じた夢を、わたしは競輪・競馬の本場で見た。

 いやむしろ、公営賭博で夢を見ることを許していたおかげで、バッタまきの場では厳しく自分を律せられたのかもしれない。いまとなって想い返してみても、そこいらへんは、ようわからん。

 すなわち賭博とはいいながら、競輪・競馬は当時のわたしにとっての息抜きだった。1万円が入場料の娯楽である。

 ハナから、勝つなんて思っていない。1か月に二回か三回、本場への入場料1万円分の夢を見て楽しんでいるだけなのだった。

 だいたい、最初のレースで、夢は弾けた。そうしたら、残りのレースは観ずに、家路につく。

 最寄りの駅に向かう帰路のバスは、いつも空いていた(笑)。

 ところが1971年のある蒸し暑い日に、奇蹟が起こる。

 夢が、夢じゃなくなってしまった。

 後楽園競輪場の二日目準決勝戦3レース。

 当時の競輪は、一日10レース・三日制である。

 第8レース的中。10倍ちょっとの配当だった。(つづく)

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番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(9)

 格安航空券などない。いやあったかもしれないが、その購入の仕方を知らなかった。  サンフランシスコ行きの航空券に60万円近く支払ったのを覚えている。  ついでだが、当時のダットサン・サニーは、新車でもサンフランシスコの急 […]

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(8)

 またあるときには、スーツに白いワイシャツ・ネクタイ姿の青年が、さくら通りの真ん中で大の字に寝転がり、  ――さあ、殺せ。いま、殺せ。  と気っぷのいい啖呵(たんか)を切っていた。  眺めてみても、啖呵を切る相手が見当た […]

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(7)

 この新宿内藤町の賭場(どば)を仕切る親方は、昔かたぎとでも呼べばいいのか、博徒(ばくと)としてのスジを通そうとする人だった。  若い衆には、博奕(ばくち)を打つことを厳禁した。  博徒とは、「ダンベイ(=旦那衆)」たち […]

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(6)

 その後半世紀も経ると、関東連合のような半グレ集団が六本木の街を闊歩するようになったのだが、あの厳しい先輩後輩の関係は、当時の港区の不良少年たちには、まるで理解不能である。というか、とてもダサく感じる。  年齢も不良歴も […]

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(5)

 当時の不良少年の間では、  ――西のナラショー、東のクリハマ。  と恐れられていた。 「ナラショー」というのは、奈良少年刑務所のことである。  久里浜にあるのも少年院とはいいながら、第四種(少年法ではなくて、刑法で懲役 […]

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(4)

 元々は高樹町に広大なお屋敷があったというが、わたしと知り合ったころの潤ちゃんは、麻布十番の長屋住まいだった。  訪ねると、潤ちゃんの父親がよく上り口に腰掛け、ちびた赤鉛筆を耳に挟んで競輪新聞を見入っていた。  潤ちゃん […]

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(3)

 中学生のわたしは、芋洗坂に住んで不良をやりながらも、暗くなると六本木通りを防衛庁側に渡ることは、めったになかった。怖かったからである(笑)。  あの一帯の規制が緩かったのか、それとも単に法規を無視していただけなのか不明 […]