ばくち打ち
第5章:竜太、ふたたび(20)
泡ワインが2本、空になってテーブルの上に載っている。
いくらタダメシ・タダ酒だからといって、竜太は飲み過ぎた。
1500ドル(13万5000円)・ベットを連続して外した衝撃が残っていたのだろう。
「これ、美味しいね」
地元南オーストラリア産のクローザーという名のスパークリング・ワインを口に運びながら、みゆきが言った。3本目である。
「こんなのいくら飲んでも、元は取れない」
3分にも満たない間に27万円を失った竜太としては、当然の不満だ。
のちに知ったのだが、このスパークリング・ワインを生産する会社は、フランスの有名なワイナリーに買収された。企業規模の問題なのだろうが、オーストラリアでいい葡萄を生産するワイナリーは、どんどんとヨーロッパやアメリカの会社に買収されていった。
「でもわたしは、20分で3000ドル勝っている。だから二人合わせればチャラでしょ」
「それは、みゆきのおカネ。いくらパートナーでも、そういう問題じゃない。気合も乗ってきたし、さてそろそろ勝負のお時間じゃねえか」
「そんなに飲んで、打つの?」
「調子が悪い場合は、それがいい。普通ならイモ引いてしまうようなときでも、どかんと行けるんだから」
「そして、どかんと失う」
「こきやがる」
明らかに師弟の関係が逆転していた。
二人が坐ったのは300ドル・ミニマムのテーブルである。
ディファレンシャルで3万ドルの表示があった。
3万AUDといえば270万円。
上等だ。
やってやろうじゃないか。
5万ドル分のAUD紙幣を羅紗(ラシャ)の上に置く。
すでに竜太の金銭感覚は壊れていた。
この5万ドルを失えば、クラウン・カジノで真希から持ち逃げした大金は、残りわずかとなる。
「カード、プリーズ」
ディーラーの脇に立つインスペクターが言った。
竜太がVIPカードを差し出す。
インスペクターはカードを受け取らない。
んっ、なんじゃこりゃ。俺は5万ドルもバイインするVIPフロアの客なんだぞ。
言葉にできないから、竜太は心の中で毒づく。
インスペクターが、グリーンの羅紗を指差しながら、なにかを言った。
もちろん、竜太には意味不明。
「テーブルの上に置け、ですって。手渡しじゃ受け取れない、と言ってるよ」
と、みゆきの助け船。
「どうして?」
「セキュリティの問題だそう」
言われたとおりグリーンの羅紗上にVIPカードを置くと、インスペクターがそれを拾い上げ、ナンバーを端末に打ち込んだ。
羅紗上に置くのと手渡しと、どこがどう違うのか。
もう、わけがわからん。
しかし、新宿歌舞伎町のアングラ・カジノとは異なり、公認のカジノには、いろいろと面倒くさい規則があるらしいことは、竜太にもわかった。
でも、それがどうした。
新宿歌舞伎町のばくち打ちを舐めてもらっては困るんじゃ。
きっちり、いわしちゃる。
この5万ドルは、翌朝には2倍、いや4倍になっていることだろう。
酔いと興奮で、竜太の動悸は限りなく高まった。
どんどこどんどこ。
「こりゃ、カット・カードを寄こさんかい」
ディーラーに対して、竜太は日本語で下品に命じた。
第5章:竜太、ふたたび(19)
ジュリアという名札をつけた美女ホストに、VIPフロアに導かれた。
外ではまだ陽が落ちていない。
バカラ卓は3台だけオープンしていた。
ミニマムはそれぞれ100ドル、300ドル、500ドルと、打ちやすい設定である。
ただし、それぞれ100倍の「ディファレンシャル(プレイヤー側とバンカー側の賭金の差額)」の制限がついていた。
一人だけでプレイしているとしても、500ドル・ミニマムのテーブルでは、5万ドルがマキシマム・ベット(=一手に賭けられる上限)となってしまう。
ほんのわずかな時間だったが竜太が経験したメルボルンのクラウン・カジノのVIPフロア“マホガニー・ルーム”では、「ディファレンシャル・20万ドル(1800万円)」なんて卓がさりげなくおいてあった。
「しけてるな」
と竜太。
ほんの数日前まで、新宿歌舞伎町のアングラ・カジノでセコい博奕(ばくち)を打っていたはずなのに、竜太はそう感じた。
歌舞伎町のアングラ・カジノでは、1万円・ミニマムのバカラ卓の「バランス(=「ディファレンシャル」のことを、韓国の合法と日本の非合法のカジノでは、なぜかそう呼ぶ)」は20万円だった。
したがって、5万AUD(450万円)の「ディファレンシャル」なら、気絶するほど高額なのだが、“マホガニー・ルーム”を短時間とはいえ経験した竜太は、すでに慣れていた。
ここが博奕の怖さである。
荊棘(けいきょく)であり、茨(いばら)の道だった。
「ターン・オーヴァーの0.5%がコンプとなります」
とジュリアがみゆきに向かって言った。
竜太とのコミュニケーションは諦めたようだ。
「なに、そのターン・オーヴァーとかコンプって?」
今度はみゆきが竜太に訊く。
一人はカジノ・ホスト、もう一人は英語がまったく駄目なロクデナシばくち打ち、残る一人はたどたどしい英語を喋るかもしれないが博奕はまったく知らない女子大生が、三人でカジノのVIPシステムにかかわり質疑応答していた。
時間がかかるのである。
「ターン・オーヴァーというのは、勝敗とは無関係に卓上でベットした金額の総計のことだ。コンプは、ターン・オーヴァーに対比して払い戻される金額。これは、宿泊・喰い物・飲み物の順にタダになっていくらしい」
ほんの数日前に、真希(まき)から教えてもらったことを、さもエクスパートのごとく、エラソーに竜太は言った。
そういえば、真希はどうしちゃったんだろうか?
真希の白い裸身が、一瞬竜太の脳裡をよぎった。
真希は、東証にも上場されている大企業のキャリア・ウーマンである。
一応なにが起こったかをハウス側にレポートはするのだろうが、騒ぎの拡大は望まないはずだ。
また東京に帰っても警察に届け出るようなことはあるまい、と竜太は思う。
届け出たところで、メルボルンのメガ・カジノで起こったことを日本の警察が立件するのは、ほぼ不可能だ。
いやそもそもそんな面倒な事案の届け出を受理するほど、日本の警察は勤勉かつ誠実ではない。
ホテルの部屋を手配してくる、と言い残しホストは去った。
「腹が減った。戦(いくさ)の前にまず腹ごしらえだ」
と竜太は言った。
「その方が、いい。竜太さんの頭も冷える」
とみゆき。
第5章:竜太、ふたたび(18)
なんというか、画に描いたような「飛び込み自殺」だった。
浮き賭金(だま)オールインのチップが発火して、竜太は一瞬で熱くなる。
次手も1500ドルをプレイヤー側を示す白枠内に叩き付けた。
「俺のカネ、返せええっ!」
前手で失ったのは、「浮き賭金」であるのだから、じつは他人様(ひとさま)のおカネなのだが、打ち手の心理としては、どうしてもそうとは思えないのである。
俺のカネ。俺のカネ。
それを奪いやがって。
そのクー(=手)も6対7の俗にいう「チャーシュー」で、あっさりバンカー側の勝利だった。
二手で27万円相当の損失。
新宿歌舞伎町のロクデナシばくち打ちにとって、起こってはならないことである。
そもそもそれまで歌舞伎町のアングラ・カジノで一手に1500ドル(13万5000円)なんて賭けたことがなかった。それなのに、連続してやられてしまった。
竜太の頭は、煮崩れた。
次のクーは、3000ドルのベットか。
一挙に取り戻す。
そのとき竜太の気合いを外すように、みゆきが席前に積まれた40枚の黒チップと8枚のピンクチップを、ディーラーに向かって押し出した。
「カラー・アップ、プリーズ」
「カラー・チェンジ」という言葉を竜太は教えた覚えがあるのだが、「カラー・アップ」なんて言葉を教えた覚えはなかった。
だいたい竜太にとっても、初めて聞く言葉である。
みゆきはクラウン・カジノのバカラ卓で、学習していた。それも、しっかりと。
教える者と教えられる者の立場が、そのうちに逆転してしまうのかもしれない。
「こっちは『ゴリラ』よね。でもこっちは、なんて呼ぶの?」
ディーラーから戻された5000ドル・チップ1枚と1000ドル・チップ3枚のうち、白色の5000ドル・チップを指して、みゆきが訊いた。
「それは、『バナナ』」
真希からの受け売りかもしれないが、そこいらの知識では、まだ竜太の方が上である。
「『インサイド』に行くとしても、わたしはまずこれを換金してくる」
とみゆき。
「そんな必要はない。VIPフロアでも、キャッシュ・チップは同じもののはずだ」
「いいの。元資の5000ドルはキャッシュとしてハンドバッグにしまい込んで、浮いている3000ドル分で『インサイド』では打つつもりなんだから」
しっかりしている。
しかしこの会話があったおかげで、竜太の煮崩れた頭がすこし冷えた。
そう、3000ドルといえば、大金なのである。
吉野家の牛丼なら675杯喰えた。
一日2杯喰ったとしても、ほぼ1年間、竜太はひもじい想いをしなくてすむのだ。
そして吉野家の牛丼の価格が頭の中に浮かんでしまったら、もう竜太は3000ドルのベットなど、行けなかった。
怖い。
そして懼(おそ)れを抱きつつ打つ博奕は、まず負けてしまうのである。
第5章:竜太、ふたたび(17)
ブロンドの長髪で、瞳は深いブルー。 痩せているのに、ベージュのブラウスの胸の部分が、きゅんと尖っていた。 まるで漫画に出てきそうな白人美女なのだが、紅がちょっと強めにひかれた唇は、竜太に悪魔のそれを連想させた。 […]
第5章:竜太、ふたたび(16)
みゆきのモンキー(=500ドル・チップのこと)ベットでの快進撃が始まった。 6目(もく)めも7目めも8目めも、プレイヤー側の楽勝である。 シューの開始から、いきなりのL字ヅラ。 「L字ヅラ」というのは、ケーセン(= […]
第5章:竜太、ふたたび(15)
「竜太さんが行かないのなら、わたしは行きます。ランには乗れ、ツラには張れ。ギャンブルって、そういうことなんでしょ」 みゆきは、カラー・チェンジされたピンクのチップを、ぴしりっとプレイヤー側を示す枠内に叩きつけた。 「初 […]
第5章:竜太、ふたたび(14)
躊躇(ちゅうちょ)したら、引く。 新宿歌舞伎町の裏賭博で、竜太がずっと用いてきた戦法である。 確信をもった手でも、負けてしまう。 負ける予感がした手なら、まず負ける。 なぜだかはわからない。しかし賭博では、「良 […]
第5章:竜太、ふたたび(13)
ゲーミング・フロアをざっと眺めまわしてみれば、70テーブルといったところか。 「ホームページには90卓と書いてあったから、また別のフロアがあるのかもしれない」 とみゆきが言う。 「なにをやる?」 竜太は訊いた。 「 […]
第5章:竜太、ふたたび(12)
「ここから海沿いに600キロほど西に向かうと、南オーストラリア州の州都でアデレードというのがあって、そこにはカジノがある。一都市一カジノの法規制だそうよ。寄ってみない」 とみゆきが言った。 クラウン・カジノで勝利して […]
第5章:竜太、ふたたび(11)
第5章:竜太、ふたたび(11) 痩せているみゆきの乳房は、竜太が想像していたとおり小さかった。 肋骨の浮いた胸に、打撲でちょっと腫れあがったくらいの盛り上がりがあるだけだ。 その盛り上がりの中心部に、直系3センチく […]