「セックスレスからの脱出」甘くて生々しい体臭が私を目覚めさせた――爪切男のタクシー×ハンター【第二十八話】
―[爪切男の『死にたい夜にかぎって』]―
終電がとうにない深夜の街で、サラリーマン・爪切男は日々タクシーをハントしていた。渋谷から自宅までの乗車時間はおよそ30分――さまざまなタクシー運転手との出会いと別れを繰り返し、密室での刹那のやりとりから学んだことを綴っていきます。
【第二十八話】ではまだ初心者さんですね。変態若葉マークです。
愛する女が臭いのだ。
同棲をしている彼女がお風呂に入らなくなった。入る頻度は三、四日に一回ほど。本人としては週に一回ぐらいが理想らしい。もともとお風呂が苦手で、三十秒も湯船に浸かっていられない子だったので驚きはなかった。病気療養のために無職となった今、他人と会う機会がグンと少なくなったので、お風呂に入る必要性が無くなったというわけだ。家計的にはガス代と水道代の節約にはなるが、彼女の健康面が心配だったので、説得を試みた。
「短い時間でもいいから、毎日お風呂に入りなさいよ」
「ごめん、無理」
「……なんで」
「……面倒臭い」
「そりゃそうだけどさ」
「私が臭いの嫌?」
「いや、臭いのは大丈夫だけど、お風呂入んないと疲れが取れないし、身体に悪いよ」
「私、毎日寝てるだけだもん、疲れないもん」
「お風呂なんてすぐ入れるんだからさ。ね? 入ろ?」
「私にとってね……お風呂って……近いようでとても遠い場所なの」
「……ふるさとかよ」
説得は失敗に終わった。
お風呂に入らなくなった彼女は、髪はベタベタ、身体からは鼻にツンとくる体臭が常にしているような状態になった。一般的に不快を感じる匂いかと言われたら、それは不快な匂いなんだろうが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。好きな人の匂いなら我慢できるというやつか。しつこく入浴を勧めても喧嘩になるだけなので、彼女はお風呂に入らない部族の出であり、これは彼女の文化なのだと受け止めて何も言わなかった。異文化交流だと思い込めば、世の中の大概のことは我慢できる。
ところが、彼女の体臭が私に思わぬ変化をもたらすことになった。長年のセックスレスからの脱出である。五年を超える同棲生活でマンネリ化した日常は、彼女と性行為をしたいという欲望を私からすっかり奪っていた。その失われた欲望が彼女の体臭によって不意に刺激されてしまったのだ。
きっかけは服だった。床に脱ぎ散らかされていた彼女のキャミソールを拾い上げ、洗濯機の中に入れようとした時、何気なく匂いを嗅いだ。その瞬間、私の身体に電撃が走った。すごく臭い。汗が混じっているのか少々酸っぱい。だが、なぜかホッとする匂いだ。知らなかった。彼女はこんなに良い匂いをしていたのか。
布団で寝ている彼女に近づき、身体の匂いを確かめる。やはり臭い。臭いのだが、臆せず一歩先に踏み込む。
髪の毛。彼女が使っているシャンプーの匂いと頭皮の匂いが合わさって、チーズのようなかぐわしい香りがしている。脇。少し汗ばんでいる。汗の匂いを嗅ぐ。鼻にツンとくる。これは熟成された日本酒の香りだ。澄み切った清酒ではないが、癖になる味をした、地方で販売しているお酒だ。女の流した汗は酒になるのか。耳、へそ、鼻の下、あらゆる場所の匂いを嗅ぐ。性格、生活習慣、使っている化粧品、洗剤、汗、食べた物、風呂に入っていないこと。この全てが合わさった彼女にしか出せない匂いが私を興奮させる。男は香水の甘い匂いだけに欲情するのではない。女の生々しい体臭を甘く感じることもあるのだ。甘いにも色々ある。
私の中で新しい扉が開かれた気がした。何日もお風呂に入っていない彼女の脇の下に顔をうずめ、胸いっぱいにその匂いを吸い込む。自分の匂いを嗅がれることへの恥ずかしさで顔を真っ赤にする彼女の様子が私の欲情をさらに掻き立てた。私は激しく彼女を抱いた。約一年半ぶりのセックスだった。
「いきなりだからビックリした……」
「ごめん、興奮しちゃって……」
「いいけどさ……お風呂に入ってない私とセックスするの嫌じゃないの?」
「別に嫌じゃないよ」
「私の方が気を遣っちゃったんだけど……」
「……俺、おまえの匂いでめちゃくちゃ興奮するみたい」
「バカ……変態」
「……うん、立派な変態だな」
「……」
「俺に脇の匂いを嗅がれてる時の……おまえの困ってる顔、すっごく可愛かった」
「バカ」
「……」
「……」
「なぁ……ごめんな」
「何が?」
「……」
「……」
その先は言葉にすることができなかった。私は泣いていた。
『死にたい夜にかぎって』 もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー! |
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