更新日:2022年08月25日 09:17
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男たるもの女という花を引き立たせる最高の花瓶でありたい――爪切男のタクシー×ハンター【第二十九話】

 今まで散々菊の話をしてきたが、「好きな花は何ですか?」と聞かれたら、私は迷わずサルビアの花と答える。サルビアには、忘れられない大切な思い出があるからだ。  小学校の時の私は、昼休みは誰とも群れずに一人で居ることが多かった。10分ぐらいの短時間なら他人とふれあうことも出来たが、30分もの長時間を他人と過ごすのは苦痛でしかなかった。担任が「子供は天真爛漫であるべし!」という思想の先生だったので、教室で本を読んで時間を潰すことも許してもらえず、しぶしぶ校庭の隅っこで、何もない空を見上げて妄想に耽っていた。  ある日の昼休み、そんな私に話しかけてくるネズミ顔の同級生がいた。彼の名前は池田君。地域でダントツの貧乏家庭として有名だった。大型台風が直撃するたびに家の屋根やら壁が壊れてしまうオンボロ長屋に住んでおり、両親が何の仕事をしているのかが不明で、占有屋や当たり屋をしているのではともっぱらの噂であった。私の家も借金の影響で貧乏だったこともあり、貧乏同士という仲間意識で多少の話をするぐらいの面識はあったが、友達という間柄ではなかった。 「サルビアの花って吸ったら甘いんや! 吸ってみてや!」  両方のほっぺたに穴が開いており、そこから空気が抜けているんじゃないかと思うほどの間の抜けた声を出して、彼はサルビアの花を差し出してきた。何も言わずに立ち尽くしている私に対して、「ほら! ほら!」と手をブンブン振り回して受け取りを強制してくる。満面の笑みを浮かべている彼には何の悪気も無かったし、いつも一人で居る私を心配してくれたのだろうけど、当時の私は、その行為の裏に「お互い貧乏なんだし友達になろうよ」という浅はかな魂胆があるのではと疑ってしまい、差し出されたその手をはたき落としてしまった。彼の手からサルビアの花びらがヒラヒラと舞い落ちる。彼は特に気にする様子もなく、ゲヘヘと笑いながら、地面に落ちたサルビアを拾い上げ、チューチューとその蜜を吸い始めた。 「知っとる? サルビアって甘くて美味しいんよ。幸せな気分になれるんよ。君も吸いなよ」  その無邪気な言葉を聞いた瞬間、私は頭に血が上ってしまった。こんな汚らしい奴に仲間だと思われたくない。俺はこいつとは違う。お前はこの先ずっと貧乏かもしれないが、俺はいつまでも貧乏じゃない。そんなどうしようもない自尊心が爆発した私は彼に襲い掛かった。TVで見たプロレス中継でアントニオ猪木が外国人選手を悶絶させていたローキックを彼の太もも辺りに炸裂させる。生まれて初めて人を蹴った。初めてにしてはなかなか良い蹴りだった。 「いじゃい! いじゃぁい!」  先ほどまでの間の抜けた声ではなく、酒焼けしたおっさんのようなしゃがれ声を上げて彼はうずくまった。しまった、やり過ぎた。大声で泣かれたら面倒だなと駆け寄った瞬間、私の足に鈍痛が走った。なんと彼も同じようにローキックをやり返して来たのだ。サルビア中毒患者に蹴り返されるなんて夢にも思っていなかった私は一瞬呆然としたが、すぐに気を取り直し、怒りに任せて先ほどより強く蹴りを返した。すると、同じぐらいの強さで彼もまた蹴り返してくるではないか。  私が蹴る。  彼が蹴る。  私が蹴る。  彼が蹴る。  何回か繰り返すうちにコツが分かってきた私は、相手の蹴りを受けないように、彼の横に回り込みながら蹴りを放つようにした。蝶のように舞い、蜂のように刺す。その言葉の通り、サイドステップを踏んで軽やかに動く私を見た彼も、見様見真似で、私の横に回り込みながら蹴りを放ってきた。  私が回り込みながら蹴る。  彼が回り込みながら蹴る。  私が回り込みながら蹴る。  彼が回り込みながら蹴る。  その動きを繰り返しているうちに私達二人は、その場をグルグルとメリーゴーランドのように回り始めてしまった。おかしなことになったと自覚はしていたが、先に止めてしまうのは負けを認めたようで悔しいので私は回り続けた。彼も新しい遊びを見つけたような嬉しそうな顔で回り続けた。  体力も限界に差し掛かったところで昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。時間にして十分以上メリーゴーランドは回り続けた。肩で息をしながらも鋭い目つきで睨んでいる私に対し、 「楽しかった! でも目が回った……吐きそうや……もう帰るわ」  彼はそう言ってニカッと笑い、「バイバイ」と手を振って校舎の中に消えていった。悔しくて仕方なかった。彼を蹴り殺せなかった悔しさではなく、彼とグルグル回っていた時間が妙に心地良かったことが悔しかった。借金、父子家庭、鍵っ子生活、私が日常生活で抱えていた心のモヤモヤが一気に晴れた気がした。私は地面に落ちているサルビアを拾い上げてその蜜を思いっきり吸ってみた。確かに甘くて美味しかった。  池田君は翌日の昼休みも、私と遊んだ場所に姿を現した。だが、そこに私の姿は無い。私を探し回っている池田君の様子をベランダから見下ろしていた。当時の私は、貧乏人同士がつるんでいることで、周りから好奇や憐れみの眼で見られることが嫌だった。そんなことが原因でいじめられたりでもしたらこの世の終わりだ。その日以降も私は池田君を避け続けた。話かけられても無視をした。そのうち彼が私に近づくことは一切なくなった。これでよかったんだと無理やり思い込むことにした。
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一ヶ月後、事件が起こった
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死にたい夜にかぎって

もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー!

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