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ウンコを漏らしたことのない奴に、人の痛みを知ることはできない――patoの「おっさんは二度死ぬ」<第10話>

漏らしても良い、そう思ったときに織田軍は鎮まるのだ

 結局、次の客が来たのは夕方になってからだった。  もう整理券が配られる1時間くらい前になって、近所の主婦らしき人が数人来た。多くの人が前日夜から並んでまでカフェの整理券を手に入れようとは思わなかったのだろう。僕とヤスノリさんは20時間くらい無駄に並んだことになる。  愚か者二人は茫然と並んでいたのだけど、いよいよ配布30分前になって、多くの賢者が押し寄せ、ついに列整理のカラーコーンも活躍しだした。ガードマンもいつの間にか配備され、いよいよ行列に並んでいると実感できる状況がやってきたのだ。 そして、大きな問題が持ち上がった。  これまでは、カフェ敷地の隣に大きな公園があり、愚かしく並んでいる時間は、そこの公衆トイレを利用していた。ただ、この整理券配布間近の状況ともなると、ちょっと行列を離れらそうにないのだ。警備員も目を光らせているし、他の客も沢山いる。なにより、ちょっと時間を早めて整理券を配ります、となったら目も当てられない。つまり、トイレに行くことが難しい状況がやってきたのだ。  僕は、「今はトイレに行くことが難しい」と認識した瞬間、お腹が痛くなる。それまで何ともなかったのにグルグルとお腹が回りだし、意識が朦朧としてくる。肛門あたりも大変な騒ぎになっており、押し寄せる多数の軍勢を農民が一生懸命食い止めているような状況になる。早い話、うんこを漏らしそうになるのだ。 「くッ、鎮まれ、俺の右腕っ……!」  なら中二病的でかっこいいのだが、 「くッ、鎮まれ、俺の肛門っ……!」  ではいまいち締まらない。いや、締まって欲しいのだけど。  ついに、配布5分前。オーナーっぽい人が出てきて整理券の確認を始めた。いよいよだ。  そして織田軍の軍勢の方もいよいよだ。もう農民では食い止めきれない。完全に地獄だ。水森亜土に描かせた地獄絵図みたいな光景が頭の中に広がっていた。ああ、だめだ、漏れるっ、こんな公の場で! 僕の人生、終わるっ! ブチョルルルルニュルンベルク  そんな音はしなかった。真のうんこ漏らしは音なんてしない。無音だ。静寂だ。そして終焉だ。  音はせず、ただ、すぐにそれとわかる臭いと深い絶望だけを周囲に振りまくのだ。その禍々しき何かが行列を覆った。  ただ、漏らしたのは僕ではなかった。ヤスノリさんだった。僕が漏らすより一歩先にヤスノリさんが漏らしたのだ。  ヤスノリさんは絶望するでもなく、恥ずかしがるでもなく、まるで右手の小指を切って少し血が出たくらいの感覚で言った。 「うんこ漏れたわ。トイレいけないって考えると下痢になるんだわ」  照れ臭そうでありながらライトにそう言うヤスノリさんに衝撃を覚えた。  ヤスノリさんが僕と同じ症状を持っていて、なおかつ下痢なのにあんなに涼しい顔していたのも衝撃だったし、なにより、いい年した大人がうんこを漏らしたこと、それでいて一片たりとも絶望していないとこ、様々な衝撃が入り混じっていた。  ただ、ここまでうんこ臭が行列を覆い、後ろの方の若者が「あのおっさん漏らしてね?」と噂している状況は好都合だ。ここで僕が漏らしてもたぶんバレないし、大勢に影響はない。うんこの臭いにうんこの臭いを追加してもうんこの臭いなのだ。  今なら漏らしても良い、そう考えるとスーッと腹痛が消えた。そういう症状なのである。プレッシャーが消えると織田軍は収まるのだ。  それを察したのか察していないのか、ヤスノリさんは満面の笑みで親指を立ててこちらに見せた。  とてもじゃないがうんこを漏らした直後の人間が見せる笑顔ではなかった。
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漏らしてからすべては始まる
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