更新日:2023年05月15日 13:31
スポーツ

同情するならカネをくれ! 落水失格が招いた規定変更 ’94年全日本選手権・金子良昭<江戸川乞食のヤラれ日記S>

<江戸川乞食のヤラれ日記S>=名勝負と呼べない名勝負?・5=  令和元年12月17日から22日の間、ボートレース界の頂点を決めるSGボートレースグランプリ(賞金王決定戦競走)が開催された。  このSGレースの出場するには一部選出を除外される条件はあるが、至ってシンプル。その年の1月1日から11月に行われるSGチャレンジカップ最終日までの間の獲得賞金額上位18人に入る、それだけなのだ。  いうまでもなく選手の主な収入源は日当や手当てなど細かいものもあるが、レースを走り、その成績によってもらえる賞金がメインであるが、その賞金は一般戦やG3では準優戦や優勝戦などの賞典レース以外では3着までしか支給されない。  しかし、G2以上のグレードレースでは例え6着でも賞金が支給され、SGともなれば6着であろうと一般戦1着の賞金と同じくらいの金額が賞金として支給される。  ゆえに強い選手は稼げ、さらに賞金の高いレースに出場でき、弱い選手は稼ぎにくい、まさに優勝劣敗の世界であり、すべての選手は勝ちにこだわるのだ。  そして、賞金はあくまでレースを完走し、着順がつかなければ1円たりとももらえない。たとえそれが1着賞金74万円の一般戦の優勝戦でも、1着賞金3600万円のSG優勝戦であろうともである。  しかし、ある日を境に、その規約が改正されたのだ。
イラスト/ツキシモ

今は落水しても手当が出るが、昔はそうではなかったようで… イラスト/ツキシモ

超抜・モンキーターンと金子良昭の台頭

 平成6(’94)年の常滑SG第41回モーターボート選手権記念競走(現・ボートレースダービー)は、当時のトップクラスの選手がF渦で出場できず、先の児島第40回モーターボート記念競走を制覇した関忠志の連覇か、その関の2着に敗れた名実共に若手のエース格に昇格したモンキーターンを駆る植木通彦に注目が集まっていた。  敢えて「モンキーターンを駆る」という表現を使ったのは、おそらく今では誰も信じないかもしれないが、この頃、1990年代前半までは今村豊の全速ターンも、飯田加一が元祖と言われるモンキーターンも、お披露目当初は「危険な操艇」と見なされ施行者から選手に注意や警告を受けたり、当時のA級選手の中にも「モンキーターンを使う選手とはレースができない」というレベルで忌避されていたのであり、実際に飯田加一はモンキーターンを理由に一部の競艇場から斡旋拒否を受けたこともあった。  しかし、前年の平成5年(’93)の戸田SG総理大臣杯(現・ボートレースクラシック)で植木通彦がそのモンキーターンを駆ってSG初優出・初優勝をなしとげ、SG優勝戦でモンキーターンを使って優勝した最初の選手となった。  それだけではなく、そのモンキーターンの創始者である飯田加一も優勝戦に出場していた。  そして、それが呼び水になったかのように、誰もがモンキーターンに挑戦し、結果この後数年もしないうちに、モンキーターンができない選手たちは淘汰されていくこととなる。予選道中はモンキーターンの競演。若手はあたりまえのようにこなし、SGやG1をいくつも獲っているベテラン選手も形はいまほど洗練されてはいないが。  そんな中、真っ先に注目を浴びたのがモンキーターンを駆る金子良昭だった。  複勝率30%に満たない中堅以下のモーターを前検日のうちに正解を出し、初日にいきなり当時の常滑水面のコースレコードタイムを塗り替える走りを見せ、一気に注目を集めて開催の主役に躍り出た。  果たして予選が終わってみれば3勝オール3連対の得点率1位での通過であった。
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規定変更のきっかけとなった優勝戦の悲劇
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シナリオライター、演出家。親子二代のボートレース江戸川好きが高じて、一時期ボートレース関係のライターなどもしていた。現在絶賛開店休業中のボートレースサイトの扱いを思案中

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