お金

マクドナルド改革の“唯一の失敗”…再建の立役者がいま明かす

すべてが日本流すぎたマクドナルド

 こうして原田氏は2004年2月、マクドナルド日本法人のCEOに就任。そこで実行したのは、「日本流」になりすぎていた同社の徹底的な世界基準へのシフトでした。 原田泳幸 馬渕磨理子馬渕:具体的には創業者の藤田田氏の経営戦略からなにを変えましたか? 原田:一口で言えば、グローバルカンパニーではなかったところを変えました。当時のマクドナルドはあまりにも“日本流”に走っていたのです。 馬渕:具体的にどんなことをグローバル化したのでしょうか。 原田:例えばハンバーガー大学の人材教育のカリキュラム。世界に素晴らしいカリキュラムがあるのに、これが日本独自のカリキュラムだったんですよ。それから、サービス改善の指針としてROIP(=レストラン・オペレーション・インプルーヴメント・プロセス)というものがあり、これを導入しました。簡単に言うと、スタッフの動き方を世界各国のマクドナルドと合わせました。 馬渕:それから毎年改革を実行された、と。 原田:就任1年目は品質、サービス、クリーンネスの3つだけを徹底しました。そこだけを徹底してから、注文を受けてからできたてを提供する「メイドフォー・ユー」を始めました。それで2年目は客数を伸ばすために100円マックを始めました。これだけで客数が12.4%伸びました。 馬渕:外食産業で12.4%の伸びは珍しいです。 原田泳幸 馬渕磨理子原田:それだけ伸びしろがあったんですよ。次は配送・ロジスティクスの改革です。海外から日本に着くまでの物流であるアウトバウンドと、国内の物流であるインバウンドを一気通貫にしました。日本だけが、国内の物流企業に依頼しており、非効率だったのでそれをやめました。ほかにも、日本のスタッフが世界のスタッフと繋がり、ノウハウを迅速に共有できる体制を整えました。

フランチャイズシフトの真相

 ここから、原田氏の就任当時もっとも「大きな改革」と言われたフランチャイズ事業の大幅なシフトへと移ります。当時、7割が直営、3割がフランチャイズだったマクドナルドは、3割を直営・7割をフランチャイズ(以下、FC)にまで引き上げる目標を掲げました。 原田泳幸 馬渕磨理子原田:直営店を減らせば人件費や店舗投資など、マクドナルド本体の経費負担は大幅に圧縮できます。地域的に直営とFCが混在する状況を改善しなければなりませんでした。もちろん、FCはよいところもあった。新卒でマクドナルドに入社し、経験を積み選ばれた人間がFCで独立できる。これは良いことなんです。 馬渕:では、何が問題だったのしょうか。 原田:多数のフランチャイズ店舗と直営店が同じ商圏に混在していたのです。これは経営効率的にとても効率が悪い。私は、商圏をマッピングして、店舗が被らないようにしたのです。そこで1オーナーに10店舗以上運営してもらい、フランチャイズのオーナー数を460社から200社まで減らしました。 馬渕:オーナー数は減らしながら、店舗は1社10店舗以上運営してもらうことで、フランチャイズ店舗の数自体は伸ばしたのですね。 原田:そうです。当時は、サテライトの小さな店舗があり、マクドナルドのメニューを全て提供できないなど、満足のいくサービスを提供できない店舗もありました。ブランドに合わない店舗は改装または撤退しました。痛みを伴う改革ですが、私の時代にやり通すと決めていました。 馬渕:ドライブスルーも改革されました。 原田泳幸 馬渕磨理子原田:今は、道路から入ったらドライブスルーのレーンは車が約6台入るようになっています。当時は、そんなに入らなかったんですよ。道にあふれていました。そのため、いつも混雑しているといった印象になり、お客様が離れていったのです。 馬渕:そのドライブスルー改革は、コロナ以降のマクドナルドを救っていますね。 原田:やっぱり変革っていうのは、全員がハッピーにはならない。撤退していただいたフランチャイズオーナー様のご家族から手紙をいただいたこともありました。お店を救ってください、潰さないでくださいと。 馬渕:つらいですね。 原田:そうですね。しかし、私は変革のためにマクドナルドに来たわけだから、決めたことは行動して最後までやるしかなかったです。
次のページ
絶対に頭を下げなかった記者会見
1
2
3
テキスト アフェリエイト
新Cxenseレコメンドウィジェット
おすすめ記事
おすすめ記事
Cxense媒体横断誘導枠
余白
Pianoアノニマスアンケート