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広岡達朗89歳が語る、“打撃の神様”川上哲治と決定的に決裂した日

大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは?68年にわたりプロ野球に携わってきた重鎮、広岡達朗の確執と信念をひもとく。

信念を貫く広岡の引退を引き留めた“昭和の大物”の存在

広岡達朗

広岡達朗氏

【画像をすべて見る】⇒画像をタップすると次の画像が見られます  68年もの間、日本プロ野球に内外から携わり続けた広岡達朗。監督時代に指導した幾多の選手からのちの監督経験者を14人も輩出し、誰よりも球界に“人”を残した男でもある。そんな広岡と“打撃の神様”と呼ばれた川上哲治との確執を、広岡本人の証言からひもといていきたい。 「カワさん(川上哲治)には、入団から引退までずっと虐げられ続けた。もし水原(茂)さんがずっと監督を務めていたら、何度も3割を打ってるよ!」  冗談めかして話す89歳の広岡だが、内心本気ではないかと感じさせるほど巨人時代に壮絶な闘いを強いられた。二人の確執の要因は、野球観の相違というより人間性が相容れなかったように思える。  ’54年(昭和29年)、広岡は鳴り物入りで早稲田から巨人に入団。その頃の巨人軍はリーグ3連覇中で、監督に名将と呼ばれた水原茂、そしてチームの大黒柱としてプロ入り14年目の4番打者・川上哲治が君臨していた。 「カワさんはファーストの守備が本当に下手だった。『俺はこの辺りしか捕らないからな』と言って、自分の胸の辺りに弧を描く。練習中ならまだしも、試合でもその範囲に来た送球しか捕らないんだから。決定的に決裂した日のことは今でもよく覚えているよ。’54年4月27日の西京極球場での洋松(現DeNA)戦で、8対4で勝っていて9回裏を迎えたときのことだった。ピッチャーはベテランの中尾(碩志、通算209勝)さんだったかな。 2回ショートゴロが来て、2回とも一塁に悪送球して1点を追加された。悪送球っていっても大暴投じゃなくて、ちょっとジャンプすれば捕れる球。だけど、カワさんは捕らない。そして青さん(青田昇)に逆転満塁ホームランを打たれてサヨナラ負け……。敗戦は悪送球した自分のせい。ゲームが終わってひとりでいるところに担当記者が近寄ってきて『えらいことしたね〜』って声をかけるから、『悪いことをしてしまった……でも、あのくらいの球を捕らんファーストがいて野球ができるかい!』って言ったんだ。それが翌日、新聞にデカデカと載ってさ。潮目が明確に変わったのはそこからです」

一介の新人からの痛烈な批判に…

 この“神様批判”とも取れる発言が新聞に取り沙汰されたことで、巨人軍に不穏な空気が蔓延し始める。広岡は正論を言ったまでだが、世の中はそう単純ではない。日本プロ野球史上初の2000本安打を達成し“打撃の神様”と呼ばれた川上哲治を一介の新人が痛烈に批判したのだから、大きなハレーションが起こるのも当然である。 「確かにバッティングの練習は“神様”と呼ばれるだけあって凄まじかった。調子が悪くなると、二軍の投手を2、3人引き連れて多摩川で2、3時間も打ち続けるんだ。『おい、ヒロ、わかったぞ。来た球を打てばいいんだ』って話していたこともあった。打撃練習では持ち時間など気にせず好きなだけ打つが、そのくせ守備練習は一切しないから下手クソなままだった」
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“昭和の大人物”による慰留と引退撤回
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