スポーツ

広岡達朗89歳が語る、“打撃の神様”川上哲治と決定的に決裂した日

“昭和の大人物”による慰留と引退撤回

広岡達朗

’64年、まさにホームスチール激怒事件が発生した年のオフに広岡(左)と川上(右)の肩に手を置く正力亨オーナー

“打撃の神様”ではあったが、“野球の神様”ではなかった川上は絶えず広岡を牽制し、衝突を繰り返しながら’61年に監督就任。そして’64年、本連載第3回で書いた「長嶋ホームスチール激怒事件」が起きてしまう。 「ホームスチール事件の前に『週刊ベースボール』に手記を書いてくれと頼まれたことがあった。球団にお伺いを立てて書いたのに、その内容が球団批判と取られて『広岡を追い出せ』とばかりにトレード話が浮上した。その話はすぐ立ち消えたが、例のホームスチール事件で俺が試合を放棄して家に帰ったもんだから、トレード話が再燃。 シーズン終了後、我が師でもある思想家の中村天風に相談したら『巨人の広岡として死ね!』と言われたことで引退を決意し、当時の正力亨オーナーに引退する旨を告げた。すると、亨は『君の気持ちはわかった。しかし私の一存では何も言えない』と言う。そこで、父の正力松太郎が裁定するという話になった。『それほど巨人を愛するのなら、辞めることはまかりならん』と正力松太郎が言うので、結局巨人に残ることになった」

己を貫き通した広岡

 正力松太郎といえば“読売興隆の祖”であり、日本にプロ野球を作った大人物である。戦後は国務大臣、初代科学技術庁長官などを歴任しただけでなく、テレビの誕生・​発展にも貢献し、日本のテレビ界の父とも呼ばれる。  もはや“歴史上の偉人”といっても過言ではない正力松太郎が一プレーヤーの処遇で動くことなど、まずありえないことだった。そんな大人物を動かしてしまうほど、現役時代の広岡は誰に迎合することもなく、己を貫き通したわけだ。  一方、監督の川上は広岡をトレードに出そうと画策。品行方正のONと違って、勝負の世界における正義とフェア精神の名のもとに思ったことをズバズバ言う広岡が煙たくて仕方がなかったからだ。
次のページ
黒江透修が当時を振り返る
1
2
3
テキスト アフェリエイト
新Cxenseレコメンドウィジェット
おすすめ記事
おすすめ記事
Cxense媒体横断誘導枠
余白
Pianoアノニマスアンケート
ハッシュタグ