スポーツ

名将・広岡達朗が誓った“巨人への復讐”。最弱球団を率いて2年半で達成

球界とのミスマッチ

広岡達朗

西武の監督就任1年目の’82年、日本シリーズ第6戦で中日を下して日本一となり、ナインに胴上げされる広岡

「’88年オフには、巨人から監督要請が来た。だけど、(当時監督の)王をクビにしてその後釜で、という話だったから、そんな席にヌケヌケと座れるかと思って断ったんだ」  自分を裏切り者扱いした巨人を他球団の監督として破り、最終的には巨人からの監督就任の打診を蹴った広岡。その後’95年にはロッテのゼネラルマネージャー(GM)に就任するも、ここでもわずか2年で解任される。その妥協のない指導とスジの通し方が、妥協と談合で塗り固められていた当時の球界とどうしても合わないのだ。あまりにも正論で、並外れて革新的な広岡の思考は、旧態依然とした組織においては最後まで理解されなかった。だが、広岡が残した功績こそが、その思考が正しかったと何よりも雄弁に物語っている。

広岡の“信念”

“打撃の神様”川上哲治との確執、そして、信念を貫き通した自分を裏切り者扱いした巨人へのわだかまり……現役時代はもちろん、監督、ゼネラルマネージャーになっても、己の信念と反発心によって自らを突き動かしてきた姿勢は一貫して変わっていない。  ただ野球界が政治力や駆け引きに左右されず健全に機能してほしい。選手にはプロフェッショナルとして妥協せず、常に研鑽を重ねて品位を持ってプレーしてほしい――。広岡の“信念”は現役時代から60年以上がたった今もブレずに燃え続けている。だからこそ、広岡は89歳になっても誰にも忖度せず、球界のために“正論”を吐き続けている。 【広岡達朗】 32年、広島県呉市生まれ。早稲田大学を経て’54年に巨人に入団。引退後は’76年からヤクルト、’82年から西武の監督を務め、日本一に3度輝く。その後は野球解説者として活動を続け、89歳となった今もコラム連載を多数抱える 取材・文/松永多佳倫 写真/産経新聞社
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

92歳、広岡達朗の正体92歳、広岡達朗の正体

嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


確執と信念 スジを通した男たち確執と信念 スジを通した男たち

昭和のプロ野球界を彩った男たちの“信念”と“生き様”を追った渾身の1冊

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