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岸田政権が弱いのは、マトモな野党がいないからだ/倉山満

マトモな野党が欲しい

 では、一般の日本国民は、維新に何を求めているのか。「マトモな野党が欲しい」である。  これは維新に限らず、立憲や国民にも求めることであるが、まずは隗より始めよ。党首の名称を「総裁」に変えてみては如何か。立民と国民は、党則にある「代表」を「総裁」に変えるだけだ。維新の場合は党の構造が複雑なのでそうはいかないが、代表選挙を機に変更してみては如何だろうか。  板垣退助が自由党を、大隈重信が改進党を設立して、我が国の政党政治は始まる。この頃の党首の名称は「総理」だった。まだ総理大臣が存在しない頃である。  明治33(1900)年に立憲政友会が創設されて以来、真面目に政権を担う気がある政党の党首は、すべて「総裁」だった。政友会は結党から5・15事件で政党政治が力を失うまでの32年間中25年、与党ないし準与党の地位にあった。今の自民党が絶対与党である前身だ。

本格的に政権を担う意思を持つ政党は「総裁」を名乗る

 分裂した政友本党の党首も総裁を名乗った。  その政友会に対し挑み、二大政党の一角に食い込んだのが、立憲民政党だ。この党は立憲同志会から出発し、他の小会派を糾合、憲政会~立憲民政党と勢力を拡大する過程で、同志会の当初こそ「総理」を名乗ったが、衆議院第一党になり、本格的に政権を担う意思を持つとともに「総裁」を名乗る。政友会の絶頂期には選挙のたびに議席を減らし、「苦節十年」の野党暮らしだったが、その間も一貫して「総裁」を名乗り続けた。  この間、他のやる気の無い政党は、総裁を名乗らず、あるいは党首を置かなかった。

8人の小政党でも「総裁」の椅子を無くすことは無かった

 昭和15(1940)年に全政党が解散するまで、民政党と政友会は二大政党だった。もはや政党に力はなく、政友会に至っては二派に分裂したが、それでもこの人たちの党首は「総裁」を名乗り続けた。  敗戦後、旧政友会は自由党を名乗り、吉田茂の下で長期政権を築く。離合集散しても、党首の名称は「総裁」だった。自由党を分派した鳩山一郎も同じ自由党を名乗り、たった35人の代議士しかいなくても「総裁」を名乗った。やがて8人の政党に落ちぶれるが、それでも「総裁」の椅子を無くすことは無かった。  旧民政党系の政党は、進歩党~民主党~国民民主党~改進党~日本民主党を名乗ったが、短い期間を除きすべて「総裁」を名乗った。やがて日本民主党が政権奪取、自由党と合併して自由民主党となった。
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やる気が無い政党の党首は「総裁」を名乗らなかった。たとえば、社会党……
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1973年、香川県生まれ。救国シンクタンク理事長兼所長。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中から’15年まで、国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務める。現在は、「倉山塾」塾長、ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰。著書に『13歳からの「くにまもり」』など多数。ベストセラー「嘘だらけシリーズ」の最新作『嘘だらけの日本古代史』(扶桑社新書)が発売中

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