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本田圭佑の「両手に腕時計」を“アリ”に。伝説のスタイリストが語る「第一印象の大切さ」

“服を売らない店員”としてカリスマ性を発揮

近藤昌 海外から仕入れたナイキのスニーカーやレッドウィングのブーツ、豊富なレングスを揃えたリーバイスのジーンズなど、マニアックな服好きから支持されるラインナップ。知る人ぞ知るお店として繁盛した。  そこでは“服を売らない店員”として評判になり、ある種のカリスマ性を発揮していたという。 「接客の売上はお店でトップでしたし、お客さんのファッションに似合わなければ、『買わなくていい』と伝えていましたね。でもその代わりに、ファッションの着こなし方や、お客さんのスタイルに合う服のブランドを教えてあげたりして。『この人と仲良くならないと服が買えない』と思われるようになり、私を慕うお客さんが増えていったんです。その中のひとりに、今でも親交のある松任谷正隆さんもいました」

トレンドセッターとして若者カルチャーを牽引

 ミウラ&サウンズの3号店は銀座に出店し、そこではSHIPSというロゴを入れた日本製のトレーナーを売り始めたところ大人気だった。だが、Made in USAのファッションにこだわっていた近藤さんは、方向性の違いと海外への憧れからハワイへ留学を決める。  日本帰国後は雑誌『POPEYE』のモデル兼スタイリストとして活動を始めることに。 「当時は分業ではなかったので、私とカメラマンとロケバスのドライバーしかいませんでした。そのため、スタイリングからモデル、ライティング、編集まで全てこなしていましたね。おかげでかなり大変でしたが、いろんな人脈もでき、知名度も少しずつ上がっていったんです。そんな折、西麻布に新たなお店を出す話が持ち上がりまして。  オーナーから『これからはモノを売るのではなく、アイデアを売る時代になる。お金は出すから会社を立てて頑張りなさい』と言われ、そこで創業したのがTOOLSでした。その頃はディスコブーム真っ只中でしたが、TOOLSを設立後、アイディア調査のための一環として海外に足繁く通っていた際に目にした製鉄所や、高架下でゲリラ的なパーティーを開く雰囲気が好きで。お店も『ディスコではなくクラブにしようか』というノリで始めたのが、現在のクラブの草分けと言われる『TOOL’S BAR』だったんです」
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本田圭佑「両手に腕時計」が“アリ”だったワケ
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1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている

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