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メガホンやゴミがグラウンドに投げ込まれ…元ベイスターズ球団社長が語った「98年優勝当時の舞台裏」

チーム名からの企業名排除は大堀の先見力か?

1998年の遺伝子

1998年、優勝時の胴上げ

 横浜ベイスターズ誕生は、30年前にさかのぼる。当時の大洋ホエールズが横浜ベイスターズに名称を変更した1993年当時の親会社は、大洋漁業だった。総務部長の要職にあった大堀は同年、同社と大洋球団のCI(コーポレートアイデンティティ)変更の事務局を担当していた。  このCI変更で大洋漁業はマルハ(その後、ニチロと合併し現在のマルハニチロ)となり、同時に球団は、親会社の企業名を外した「横浜ベイスターズ」へと生まれ変わった。  ここまで聞くと当時の12球団で唯一、チーム名から企業名を排除した先進的な取り組みは大堀の先見力と思えたが、大堀は、これをきっぱり否定した。 「私は当時、親会社の企業名が変わったことを社会的に認知してもらうために、マルハという企業名や、少なくともロゴをチーム名に入れてはどうか、とオーナーにしつこく提言しました。  しかし、オーナーは首を縦に振らず、最終的に私は、『それはオーナーの思想ですか?』とただしたところ『YES』という返事でした。それ以上の主張は断念し、チーム名が決定したのです」

「地域とファンが中心となって運営・成長させるべき」

 ’07年に鬼籍に入った中部オーナーには、これからのプロスポーツは、企業ではなく地域とファンが中心となって運営・成長させていくべきという揺るぎない思想があった。球団社長に就任後、大堀は中部オーナーの考えに沿って仕事に邁進してきた。 「そんな中でのこの出来事は、ファンを含めたチームの成長の証しとして私にとっては画期的な出来事であり、忘れられない思い出でもあります」  1998年の日本シリーズ制覇後、横浜市や地域団体、メディアの協力を仰ぎながら、ベイスターズの優勝パレ―ドが盛大に行われた。スタジアム周辺のビルからは無数の紙吹雪が舞い、その美しい景観は日本中に報道された。  パレード終了後、周辺の企業や地域住民が中心となり、横浜の街をきれいに清掃してくれる姿を見て、大堀は「優勝と同じくらい感動した」と、目を潤ませながら振り返る。
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駕籠に乗るひと担ぐひと、そのまた草鞋をつくるひと
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1973年、神奈川県生まれ。日大芸術学部卒業後の1997年、横浜ベイスターズに入社、通訳・広報を担当。'02年・新庄剛志の通訳としてMLBサンフランシスコ・ジャイアンツ、'03年ニューヨーク・メッツと契約。その後は通訳、ライター、実業家と幅広く活動。WBCは4大会連続通訳を担当。今回のWBCもメディア通訳を担当した。著書に『大谷翔平 二刀流』(扶桑社)ほか

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