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Adoの歌唱力に「うますぎる」相次ぐ絶賛の声も…最近の日本のヒット曲が“脆い”と感じる理由

曲が「ボーカルの踏み台」になっている

 ところが、本来、曲>歌であるべき主従関係が、Adoにおいては逆転してしまう。つまり、曲がボーカルの踏み台になっているわけです。数あるAdoの技を細切れにしてパッケージングした構成は、テーマパークのアトラクションを思わせます。  ただし、それが刹那的に酩酊感を味わわせるスペクタクルではあっても、総体として、ひとつのまとまりとしての曲と言えるのか。  Adoの歌唱にばかり驚く感想は、その問題点を指摘していると言えるのです。

まるで難しいゲームを攻略しているよう…

 King Gnuにも同じことを感じました。どこの国のヒットチャートを見渡しても、彼らほど複雑なことをやっているミュージシャンはいません。なのですが、彼らも行っていることの難しさがどんな人にもすぐに伝わってしまう。複雑さが消化されないまま、作品の表面に残ってしまっているイメージなのですね。  だから、歌や演奏が、難しいゲームを攻略しているように聞こえてしまう。自らの腕を証明するために、曲中にわざと難所を仕掛けているといったら意地悪でしょうか。スティーリー・ダンのように、あたかも自然に聞こえるのなら問題ないのですが、King Gnuにおいては曲全体のまとまりではなく、局所的なとんがりがフックになっている。そこにAdoに通じる問題があるのですね。  彼らに限らず、日本のヒット曲は狭い範囲でのテクニックや高難度の音楽的な仕掛けがインフレを起こしている。とても内向きになっているのではないかと心配する理由です。
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日本の昨今のヒット曲が“脆い”理由
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音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4

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