70歳の金萬福が振り返る、30年前のブレイク期。『浅ヤン』に命がけ「死んじゃうと思ったけど、やりたかった」
お笑いファンからすると、『ASAYAN』ではなく『浅ヤン』である。あのテリー伊藤が総合演出を務め、92~96年に放送されたバラエティ番組『浅草橋ヤング洋品店』(テレビ東京系)は今なお語り継がれる伝説だ。
数々の名企画が生み落とされた同番組だが、なかでも「中華大戦争シリーズ」を忘れられない人は多いと思う。このシリーズで一気にスターダムを駆け上ったのが、金萬福だった。新横浜プリンスホテルの料理長という役職ながら、火を吹くわ、相撲部屋でぶつかり稽古をするわ、クレーンに吊るされながら20メートルもの長さの中華麺を茹でるわ……。
そんな彼も、今や御年70歳。ここでひとつ、今までの半生を振り返っていただきたくインタビューを申し込んでみた。日本に来たきっかけ、『浅ヤン』出演の経緯、地獄のようなロケを完遂した心境……などなど、盛りだくさんの内容になっている。読めば、“あの時代”の空気が蘇ってくること請け合いだ。
――どういうきっかけで、日本に来たのでしょうか?
金萬福(以下、金):香港で仕事してたら、「日本で料理の仕事をしないか」と周(富徳)さんが誘ってきたの。彼は横浜の中華街生まれでずっと日本で仕事してたんだけど、材料を買いに年6~7回くらい香港に来るんです。そのときに毎回会ってて、一緒に食事して。いつも、「日本に仕事しにきてください」と言ってきた。それを毎回断っちゃって。
それで、僕は日本じゃなくてアメリカのサンフランシスコで仕事が決まったから、4~5人の弟子を連れて行こうと思ったんです。でも行くと、店の建物の建設が半年くらい遅れてまだできてなかった。「建物ができるのは予定より半年くらい遅れると思う。完成まで金さんが待っていてくれてたら嬉しいけど、もしも待てなくてほかに仕事があるようなら、そっちに行ってもらってもかまいません」って。だから、僕は弟子を1人連れて日本に行ったんです。
――建物のでき上がりが遅れたから、周さんの誘いに乗って日本に来たと。
金:そう。そのときも「日本はどうですか?」と周さんが誘ってきてたし、僕もアメリカの仕事を断っちゃったから「日本に行きま~す」という流れね。
その後、日本で仕事して2年目くらいね。僕が新横浜プリンスホテルで料理長の仕事をしてたら、周さんが「こういう番組があるから、出ますか?」って。僕も料理人だから、やっぱりテレビに出たいじゃん。なかなか、料理人がテレビ出ることってないからね。僕は「ああ、出ます出ます」って。
――それが、あの『浅ヤン』だったと。
金:周さんは、僕よりも少し早めに『浅ヤン』に出てたんですよ。本当は、周さんと最初から一緒に出てほしいと言われたけど、僕のスケジュールが合わなかった。
――実際は、最初の料理人として周さんが登場し、次に譚彦彬(たん ひこあき)さんが出て、3人目が金さんでした。金さんの出演が決まったのは、名前がおもしろいのが決め手だったという話を聞いたことがあります。「金萬福」の「まんぷく」は、日本語で「満腹」。もう、そのまんまですから(笑)。
金:香港でも「萬福」って、「お腹いっぱい」とか「幸せ」とかだいたい日本と同じ意味ね。
――同じなんですか!
金:テレビに出るとき、スタッフがテストで僕のことを1回見たんです。当時、周さんがいたお店「赤坂璃宮」で、ディレクターの高須さん(『浅ヤン』のディレクターだった高須信行氏)に「なにか、得意なことをやってください」って言われて。高須さんは「この人はなにが得意なのか?」が知りたかった。その得意なことで、オープニング映像を撮りたいじゃん。
そこで僕は食材を切ったり、鍋からファイヤーを出したり、いろいろやったら、高須さんが「これこれこれ! この人!!」って興奮してた。彼の気持ちとしては、僕みたいなイメージの人を探していたみたいです。
――ものすごい火を立たせながら料理している金さんの姿を見て、高須さんは「この人、この人!!」と興奮したわけですね。

金萬福さん
来日した経緯は「周富徳さんに誘われて」
ディレクターが金萬福に大興奮「この人、この人!」
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