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「A級戦犯で処刑された7人」人知れずひっそりと熱海の山に眠る

7人の遺骨は太平洋に散骨された?

 令和3年6月、A級戦犯の遺骨を太平洋に撒いたと米軍将校が記した報告文書が発見された。〈文書によると、少佐は48年12月23日午前0時すぎ、巣鴨プリズン(東京)で7人の死刑執行に立ち会った。遺体を乗せたトラックは午前2時10分、巣鴨プリズンを出発し、1時間半後に横浜市内の米軍第108墓地登録小隊(現・横浜緑ケ丘高)に到着。午前7時25分に小隊を出て、30分後に同市の火葬場(現・久保山斎場)に到着した。遺体は午前8時5分までにトラックから直接、炉に入れられた。  火葬後、別々の骨つぼに納められた7人の遺骨は、第8軍の滑走路に運ばれ、「横浜の東の太平洋上空を約30マイル(48キロ)地点まで連絡機で進み、私が遺骨を広範囲にまいた」と記している。〉(『日本経済新聞(電子版)』(6月7日付))
遺骨

ここに7人の遺骨が埋葬され供養されている

 しかしながら、7人の遺骨は間違いなく熱海の興亜観音に埋葬され、供養されている。その経緯が『評伝 南京戦の指揮官 松井石根』に記されている。〈東京裁判の弁護団の一人であった三文字正平は、七名の遺骨を米軍から取り戻す計画を密かに画策していた。遺骨を遺族の元に戻したいという一心であった。(中略)火葬場長である飛田は米軍将校の監視の目を盗んで、七名の遺骨の一部を、予め用意しておいた七つの小さな骨壺へと納めることに成功した。飛田は七つの骨壺を速やかに別の部屋へと移して隠した。しかし結局、線香に火を灯したところを米兵に発見されてしまった。  米兵は遺骨をひとまとめにして、無縁仏などのための共同遺骨置き場に無造作に投げ入れた。一時は茫然となった飛田だが、彼はまだ諦めなかった。  その夜、(中略)共同遺骨置き場へと忍び込んだ。(中略)広さは二坪ほどで、深さは四メートルほどだった。骨を投入する口の部分は、幅十センチ、高さ三十センチほどの長方形をしており、その上には御影石製の花立てが置かれていた。(中略)遺骨置き場の底の方に真新しい白骨が相当量あったのを確認した。(中略)火かき棒の先に空き缶を付けて、丁寧に骨を掬くい取った。苦心した挙げ句、漸く骨壺に一杯ほどの量を集めることができたという。〉 〈昭和二十四年(一九四九年)五月、それまで興禅寺に隠されていた遺骨が、熱海の松井宅に運ばれることとなった。七名の遺族らが故人を偲ぶため松井家に再び集まることを知った三文字らが、この機会に遺骨を返そうと考えたのである。(中略)遺骨を持った三文字らが松井宅に到着した。(中略)三文字は早速、遺骨を遺族らに渡そうとした。すると東條の未亡人・かつ子が、三文字に次のような意味のことを言ったという。 「御厚志は真にありがたいが、万が一、私たちが遺骨を保存していることが探知されたら、あなた方に取り返しのつかない非常な御迷惑がかかる。当分、どこかへお預けして時機の到来を待った上で分けていただきたい」(中略)七名の遺骨はそのまま興亜観音に託されることとなった。〉

荒れ果てた道、急勾配の坂

評伝 南京戦の指揮官 松井石根

『評伝 南京戦の指揮官 松井石根』(育鵬社)

 来年で敗戦から80年になる。いまも熱海郊外の伊豆山の中腹に興亜観音は立っている。観光シーズンには大渋滞になる国道135号から数百メートル伊豆山に入った、徒歩で10分あまりのところだが、その道は荒れ果て、勾配も急でおよそ観音堂が立っているとは思えない。一般の宗教法人と異なり、墓地もなく檀家もいないため、収入は建立時から続く支援組織「興亜観音奉賛会」の会費などごくわずかだという。  ここで供養されているのは、「事後法で裁く」という罪刑法定主義に反する行為で死刑に処された、日本の国益を護りアジアを欧米の植民地主義から解放するために尽力した人たちである。その遺骨が埋葬されている観音堂が荒れ果てているのは、あまりにも先人への敬意が欠けていないだろうか? いま興亜観音が荒れ放題なのは、我々の倫理観を象徴しているのかもしれない。
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評伝 南京戦の指揮官 松井石根 評伝 南京戦の指揮官 松井石根

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