仕事

19歳で単身渡米「年商250億円」のグループ企業を築くまで。“4度の破産危機”を乗り越えたアメリカの“敗者復活”文化

大学受験に失敗した後、19歳で500ドルを握りしめ単身渡米ーーその結果、“アメリカンドリーム”を掴んだのが、ヨシダフーズインターナショナルジャパン株式会社で会長を務める吉田潤喜さん(75歳)。 アメリカ発の醤油味ベースのたれ「ヨシダソース グルメのたれ」を開発し、4度もの破産危機を乗り越えた人生は、まさに波乱万丈。年商250億円にのぼるインターナショナル企業を築き上げ、現在もヨシダグループの会長として、ビジネスの最前線で活躍している。 アメリカと日本、ビジネスカルチャーが大きく異なる環境で、吉田さんはどのようにして会社を生き抜いてきたのだろうか。
吉田潤喜さん

吉田潤喜さん

大学受験に失敗し、たった一人で渡米を決意

大学受験では英語科目の成績が足を引っ張り、憧れていた立命館大学を落ちた吉田さん。浪人の道もあったが、「なぜ学歴のために1年間を棒に振らなければならないのか」という疑問と、日本での生きづらさを感じたことをきっかけに、単身渡米を決意した。 母親は吉田さんの夢を熱心に応援し、自らの貯金に加え、親戚からの借金までして500ドルを工面した。その資金を握りしめ、彼は19歳で縁もゆかりもないアメリカ・シアトルに渡った。 「渡米当初は、帰りの航空券を売り2~3ヶ月の間、車中泊生活をしていました。その後、住み込みのハウスボーイとして働きながら、空手の腕前を武器にトーナメントに出場し、賞金を生活費に充てていました」(吉田潤喜会長、以下同じ) アメリカでの最初の大きな転機は、妻・リンダとの出会いだ。その後、空手道場を開設し、渡米から4年ほど経過したタイミングで、美しい米国人女性に一目惚れする。 「絶対に結婚したいと思い、出会って2週間でプロポーズ。けれども、彼女はすぐには首を縦に振ってくれませんでした。自分の覚悟を示すために、火のついたタバコを自分の手に押し付けて(根性焼き)……。当時の私にはそれ以外に気持ちを伝える方法が思いつかなかったんです。なんとか結婚を受け入れてくれ、その後長い間苦楽を共にしました」 幸福の絶頂を迎えたと思いきや1981年ごろ、レーガン大統領の政権下でアメリカに深刻な不況が訪れた。吉田さんは子宝に恵まれるも、空手道場の経営は次第に厳しくなり、生活は困窮。そんななか、空手道場のクリスマスパーティーで、母がかつて作ってくれたソースを再現してバーベキュー料理をふるまったところ、道場の子どもたちに大好評となった。この出来事が「ヨシダソース」の誕生につながる。

コストコで実演販売し、ソースが大ヒット

吉田潤喜さん

コストコとの付き合いは長く、現在も固い絆で結ばれている

ソース事業で再起をかけた吉田さんは、一室にこもり、独学でソースの研究開発を重ねた。 「近所にあるマーケットや小さなレストランに足を運びました。そして従業員に試食をしてもらって感想を聞き、味の改良を重ねました」 こうして生まれたヨシダソースは話題を呼び、ソースビジネスを開始してから1年ほどで大手スーパーに置かれるようになった。さらに、アメリカ発祥の会員制倉庫型店「コストコ」との契約話も持ち上がった。 今でこそ世界14か国・地域に展開し、会員数は約1億3500万人に達する有名企業となっているコストコだが、1980年代前半当初はシアトルとポーランドの2店舗のみで展開しており、なおかつメンバーシップ制度自体も一般的ではなかった。 「商品を取り扱っていた大手スーパーは、コストコを脅威に感じていたのか、『コストコと商売をするなら、ヨシダソースの商品は置かない』との脅迫を受けたこともありました。でも、コストコの担当者や企業としての可能性に賭け、結果的にコストコを選択しました」 コストコでは吉田さん自らが店頭に立ち、現在でも代名詞であるカウボーイハットと、着物やゲタといった“日本人っぽい”要素をミックスした格好で実演販売を行う。そのユニークなパフォーマンスが徐々に注目を集め、加えて商品の味のおいしさも相まって大ヒット商品に。1982年には、オレゴン州にヨシダフーズを設立し、本格的に事業展開を始めた。 しかし、順風満帆にはいかないのが人生だ。売り上げの低迷やスノーボード事業の失敗など、50年以上の経営者人生のなかで、4回もの破産危機に見舞われた。
次のページ
義父から受け取った「16万ドルの小切手」
1
2
IT企業の広報兼フリーライター。元レースクイーン。よく書くテーマはキャリアや女性の働き方など。好きなお酒はレモンサワーです
記事一覧へ