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“本当の友達”という幻想【中島岳志×大森立嗣】 Vol.2

「秋葉原無差別殺傷事件、犯人、加藤智大、彼は一体誰なのか?」
― 中島岳志×大森立嗣対談 Vol.2 ―


映画『ぼっちゃん』

映画『ぼっちゃん』 ユーロスペースにて公開中。他、全国順次公開! (C) Apache Inc.

 現在、渋谷・ユーロスペースで公開中の映画『ぼっちゃん』。2008年6月8日に起こった秋葉原無差別殺傷事件を“モチーフ”にしたこの作品の公開を記念し、大森立嗣監督と、ルポ『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』を著した中島岳志氏のふたりが、“加藤智大、秋葉原無差別殺傷事件とは何だったのか”を語りつくす。

⇒Vol.1「“加藤智大”を語る/描くということ」http://nikkan-spa.jp/412165

◆友達がいたのに“孤独”だった

中島:僕があの本で、ひとつ「違うんだ」と言いたかったことがあります。例えば社会学者の宮台真司さんなんですが。秋葉原事件が起きたときに、宮台さんが何を言ったのかというと、「これは“誰かなんとか言ってやれよ問題”だ」と言ったんです。つまり、加藤にはいろいろな心のねじれや悩みがあり、けれども彼自身には友達がいなかった。社会の中に包摂されていなかった。それが、あんな大事件を起こすきっかけになったと。彼にちゃんとした「友達」がいればよかったという議論を宮台さんは立てられたわけです。

一見、「なるほど、そうかな」と思うし、そういう側面がないわけではないのですが、僕は少し違うなって思ったんです。別に宮台批判をしたいわけではないんですが、調べれば調べるほど、加藤には友達がいっぱいいるんです。

地元・青森の中学高校の友達とは事件の前までメールのやり取りをしているし、派遣先でも、一緒に伊豆にドライブに行ったり、秋葉原にツアーと称して行ったりする友達がいる。

また、実は加藤はコミュニケーション能力はある。

当時、宮崎県知事に東国原さんが就任し、「どげんかせんといかん」というのが流行っていました。加藤は自分の頭髪が少し薄くなっているのを自らネタにして、オデコを出して、「どげんかせんといかん」と言ったりもしています。

つまり、自分の弱点と思えるところを、笑いに変えられるほどのコミュニケーション能力があったんです。一緒に飲む友達もいるし、同じ趣味で語り合う友達もいるのに、彼はこの事件を起こした。

つまり、問いをもうひとつ深めないといけないわけです。

「友達がいなかったから孤独」なのではなく、「なぜ、友達がいるに孤独なのか?」という問いに置き換えないと。でなければ、この問題の真相にいけない。

中島岳志×大森立嗣対談

「なぜ友達がいたのに、加藤は孤独だったのか?」という新たな問いを立てなくてはならない(中島)

大森:中島さんの本を拝見して、「彼は友達がいるのになぜ?」という問いかけには、すごく惹かれましたね。そのときは、すでに僕自身はプロット、脚本的なものができあがっていたんですが、「ああ、こういうふうなことだったのか!?」と思いました。

中島:先ほど、大森さんが気になったという、加藤の「誰かを愛したい……」という書き込みは、僕も反応した言葉でした。どういう状況で加藤がこれを書いたのかというと、恐らく、ある女の子に向けられた言葉なんです。

加藤は、ネットの掲示版のコミュニティを持っていて会話をしていたんですが、加藤はそこでずっと自虐ネタを書いているんです。自分はブサイクだからモテない。モテない人間は生きている意味がない、など。それらの書き込みを彼は“ネタ”だというんです。だから、ネタに対して、マジレスや説教をしてくる人を彼はからかいます。

そういったものも含めて「おもしろい」と、メタレベルでわかってくれる人とは、自分は何か共有できると、他者に対して、加藤はそういう分類をしているんです。

そんなときに、ある女の子が加藤に「友達になりたい」という書き込みをします。それに対し、加藤はやはりネタ的にネガティブに返すのだけれど、その女の子はすごく素直な子で、「それはそうと、仕事は終わったの?」とか「私は缶チューハイのピーチが好きだけれど、何が好き?」といった他愛のないやりとりをしている。そんなやり取りをして彼女が掲示版から離脱し、その翌朝に書き込んだのが、あの言葉だったんです。

大森:彼女に向けたメッセージですよね。

中島:加藤は裁判で繰り返し、「現実は建前だけれど、ネットは本音」と言っていました。現実は利害関係があるから、なかなか本音の関係が生まれない。つまり、心と心の関係とういうか、自分の透明な関係性は生まれない。けれども、ネットは本当の心と心の会話が最終的にできるという。

加藤は、自分に承認を与えてくれたその子に対し、“ネタ”ではなくマジレスをし、一歩、踏み込もうとする。しかし翌日になり、その彼女には彼氏がいることがわかる。そこで彼はキレる。そして、またたくさんのなりすましが入ってきて、彼をからかう。そこで彼はブチ切れてしまって、掲示版が荒れ放題になり、誰も書き込まなくなり、そこで一人でずっと書き始める。それが事件の原因だといっている。なりすましが原因なんだと。

大森:今、「愛されたい」と言う人はいっぱいいるんだけど、「愛したい」と言う人は少ないという印象があって、この言葉が気になったのですが、同時にどこかで彼は、人とつながりたいと渇望しているのもわかった。僕らと加藤がそんなに遠い存在ではないと強く思えたんです。

◆「なりすまし」で奪われた自己

中島岳志×大森立嗣対談

「愛したい」という加藤の言葉に、僕らと彼がそんなに遠い存在ではないと強く思えた(大森)

中島:僕、加藤の文章を読んでいて、思い出したのが、18世紀のフランスで活躍した思想家・ルソーのことだったんです。

ルソーって、すごい変な人で、どう変かというと、J.スタロバンスキーという人が『ルソー 透明と障害』という本を書いているのですが、ルソーは「近代人は表面的な人間関係になっていて、本当の自分からも本当の他者からも疎外されている」と考えるんです。

例えば僕たちは、人と会っていても、本当はすごく嬉しいのに、すましてみたり、ものすごく感動しているのに、なんてことないよっていう顔をしたりします。ルソーはこの表層の世界と内的な奥底の本当の心の間にベールがかぶされているというんです。

近代人は心と心がベール同士で塞がれていて、すべて表層の人間関係になっている。だから、心と心の関係を取り戻さなくてはならない。未開人や子供、あるいは古代人のように、怒りたいときに怒り、笑いたいときに大声で笑い、ベールをはぎ取って、心と心でつながる透明な共同体を作らなくてはいけない、と。

そして、透明な共同体の中で心と心でつなぎあい、みんなで意志を合わせれば、“一般意志”というものが浮かび上がる。つまり、ある特定の民族なりなんなりの中で、皆がある種、承認できるような、みんなの思いがひとつになったような、そういう意志がふっと現れてくると。

この観念がデモクラシーを生んだし、一方ではナチズムに使われました。この人間が心と心で本当につながれるという幻想が、近代人であるが故に生まれてくる。

加藤も同じなんです。心と心で人とつながりたい。現実はどうやっても建前の関係。では、どうやったら人と心と心でつながれるのかというと、外観、建前をなくせばいいと考えたのではないかと思んです。これがネットという問題なんです。脱身体的なメディアの存在です。

ルソーの時代には不可能でしたが、今は身体を欠いたコミュニケーションが可能になっている。加藤は外面をなくせば、心と心でダイレクトにつながれる。それがつながれる相手かどうかのテストをネタでやっていった。このネタをおもしろいと言ってくれた人が、加藤にとっては心と心でつながれる可能性がある他者になる。

加藤には、ネットでつながって自分で承認してくれる相手とは会いたいという思いがあり、積極的に次々と会いに行く。実際に対面しては、缶チューハイ1本で彼は泣きだしたりもしています。「本当の友達が欲しい」と。青森の長いつきあいのある友達とはそんなこと絶対にしないんです。

この幻想って一体なんなんだろう?と。

つまり、「友達がいるのに孤独」って、そこなんですよ。青森に友達がいるし、日常的には利害関係がともなった他者で友達はいる。が、建前が存在する。外観の関係。それは本当の関係ではないと、彼は考える。それを超えた人間関係を求めるときに彼はネットに注目した。

けれど、ネットは匿名性であるが故に、脱身体的メディアであるが故に、自分がのっとられる。名前などハンドルネームを書けばいいだけですし、文体だってマネることもできる。「なりすまし」によって、どんどん彼は自己を奪われていくわけです。そして崩壊してしまうというのが、この事件の原因とプロセスだと思うんです。

この幻想はいろんなところで続いていて、加藤だけの問題ではありません。

大森:脱身体というのは、なんとなく感覚でわかりますね。僕は若い俳優さんとお仕事したり、ワークショップなどで教えたりすることはあるんですが、自分の感情を沸き起こらせるとき、いろいろなものが邪魔をするんです。緊張が邪魔したり、演技ってこういうものですよね、という思いに縛られたり。あるいは、相手を信用できないために自分を出せなかったり。緊張したりすると、相手に触れても暖かさも柔らかさも感じられなくなります。役者っておもしろくてそういうのを、どんどん取ってあげると、クセがなくなったり、すごくいい芝居ができるようになる。

うまく言えないんですが、役者って「自分はここにいる」ということを身体で表現しなくてはならない仕事です。でも、「こういう芝居をしたい」とか、あるいは「認められたい」とか、そういうことを考える逆に身体が動かなくなる。今のルソーのお話は芝居をする僕らにとっても、何かヒントになる気がします。

⇒Vol.3「加藤に届いたBUMP OF CHICKENの言葉」へ続く
http://nikkan-spa.jp/412223


映画『ぼっちゃん』(http://www.botchan-movie.com/)
監督・脚本/大森立嗣 出演/水澤紳吾、宇野祥平、淵上泰史、田村愛ほか ユーロスペースにて公開中。他、全国順次公開! 製作・配給/アパッチ twitter:https://twitter.com/botchan_movie

●中島岳志(なかじま・たけし)
1975年生まれ。歴史学者・政治学者。北海道大学大学院法学研究科准教授。専門は南アジア地域研究、近代政治思想史。2011年に、秋葉原事件の加藤智大の足取りを追い、関係者への取材を行い、裁判の傍聴を重ね、『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』(朝日新聞出版)を著す。ほか著書に、『中村屋のボーズ』(白水社)、『保守のヒント』『ナショナリズムと宗教』(春風社)、『朝日平吾の鬱屈』(筑摩書房)、『ガンディーからの“問い”―君は「欲望」を捨てられるか』 (日本放送出版協会)、『ヒンデゥー・ナショナリズム』(中公新書)、『やっぱり、北大の先生に聞いてみよう―ここからはじめる地方分権』(北海道新聞社)など。twitter:https://twitter.com/nakajima1975

●大森立嗣(おおもり・たつし)
1970年生まれ。前衛舞踏家で俳優の麿赤兒の長男として東京で育つ。大学入学後、8mm映画を制作。俳優として舞台、映画などの出演。自ら、プロデュースし、出演した『波』(奥原浩志監督)で第31回ロッテルダム映画祭最優秀アジア映画賞を受賞。その後、『赤目四十八瀧心中未遂』(荒戸源次郎監督)への参加を経て、2005年、『ゲルマニウムの夜』で監督デビュー。以降、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』『まほろ駅前多田便利軒』『2.11』などを手がけ、国内外で高い評価を得る。最新作『さよなら渓谷』(http://sayonarakeikoku.com/)は今年、6月22日公開

<構成/鈴木靖子>

秋葉原事件 加藤智大の軌跡

なぜ友達がいるのに、孤独だったのか――

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