更新日:2023年05月23日 17:39
スポーツ

西島義則の鬼気迫る大減量。平成12年SG第5回オーシャンカップ

<江戸川乞食のヤラれ日記S> =ここでは昔の話をしよう・4=  これはまだボートレースが競艇と言われていた時代の話。  個人的な感想なので異論は多々あると思うが競艇の頃から現在まで、東京に関しては「地元プール」という意識が希薄な気がしてならない。  漠然と、東京東部と千葉が江戸川、東京西部と神奈川が平和島、23区外と山梨が多摩川なんだろうかというイメージになってしまう。  とはいえ、江戸川に関しては古くは「江戸川の星・望月重信」「江戸川の若大将・桑原淳一」「江戸川鉄兵こと石渡鉄兵」を筆頭に江戸川を「地元」と称する選手は多々いるが、それ以外にも江戸川(波乗り)巧者で多く斡旋される選手であれば東京以外の選手にも異名をつけることが多く、多摩川では時折「是政の○○」みたいな異名をつけられて紹介される選手もいないことはないが、平和島ではどうだろう?  江戸川は例外としても、あまり前面に押し立ててなにか紹介をするという形は少ない感じで、むしろ「地元」を前面に押し出し選手に背負わせるような物語は西へ行くほど強いような気がする。

SG開催と地元選手の絡みは話題に事欠かない

 サッカーや野球の試合などではホームでの試合は有利で、アウェイでの試合は不利とよく言われるが、同様に競艇でも地元選手に有利だといわれていた。  それゆえに、客の方も攻略法として「迷ったときは地元選手から買え」という指摘が現在でも有力である。  斡旋回数が多く走る機会に多々恵まれている分、遠征勢よりも水面に慣れている。  というのがいちばんの理屈である。  それと……オケラの泣きごとかもしれないが、確かに地元優遇の番組というのもあったという気もしていた。  客の声は無視するとして、その地元で開催されるSG競走。  そしてその晴れ舞台に出場できるというのはやはり優勝候補として注目されるのは地元の有力選手であることが多く、過去の地元選手に絡んだ因縁話などが地元開催に華を添える。  平成12年(’00年)のSG開催場のうち、第5回オーシャンカップ競走が宮島競艇場で開催されることが決定された。  宮島競艇場でのSG開催は平成10年(’98年)の第8回グランドチャンピオン決定戦競走以来2年ぶりの開催だったが、この時の優勝者は佐賀の上瀧和則、地元の広島勢は北川幸典が優出2着という結果だった。  この時の開催は、一部のマニアックなオールドファンの間で、ある種の因縁を感じていた優勝戦でもあったという。  宮島競艇場がはじめてビッグレース(当時からのSGの通称)が開催されたのは昭和36年(’61年)の第7回モーターボート記念競走(現・ボートレースメモリアル)で、その時の優出メンバーの中に、北川幸典の父親である北川一成(当時22歳)が地元の期待を背負い優出していたのだ。  しかし結果は5着に敗れ、優勝は当時24歳だった佐賀の松尾泰宏であった。  それ以降宮島ではビッグレースが開催されておらず、37年目のこの日、宮島競艇場でのSG優勝戦の舞台で再び展開される佐賀vs地元広島という対戦。しかも地元広島からは前回敗れた父親の息子。果たして父の無念を晴らせるか? そんな図式で優勝戦の話で盛り上がっていたという。  結果は上記の通り、2枠上瀧がインを奪い、そのまま外からのまくりを完封して逃げ切り、対する北川も6枠6コースから果敢に1M最内を差して猛追するも舳先がかからず2着惜敗に終わった。  そして宮島競艇場第5回オーシャンカップ競走、再び地元をめぐるエピソードが紡がれた。

地元を意識した西島義則の大減量

 平成12年(’00年)6月。下関競艇場での第10回グランドチャンピオン決定戦競走優勝戦。初日からピット離れに関係なく枠番より内側を狙う強烈な前ヅケを見せ、結果全レース1、2コースからのスタートを見せ準優まで5勝3着1本で優勝戦まで勝ち上がり、優勝戦もフライング艇のまくりを寄せつけず堂々の押し切り勝ちを見せ、自身3度目のSG制覇をなしとげた。  この時点で注目は次の宮島でのビッグレース、SG第5回オーシャンカップ競走。  注目はこの時期ならではの2000番台のベテランvs植木道彦を筆頭に台頭する3000番台の世代交代、そしてそれ以上に地元の西島義則のSG連覇と地元競艇場でのSG制覇か? という図式が期待されていた。  そんな中、誰もが発表された西島の体重を見て驚いたに違いない。  出走表に書かれた前検日に計測された西島の体重は51kg。身長166cmと競艇選手としてはやや大柄の部類に入る西島は普段は55kg前後、不調のときは58kgまで体重が上がった状態でレースをしているがこの開催ではそこから4kg落としての出走となっていた。 「まるで昔の野中じゃねぇか……。西島のヤツ、本気で勝ちにきているな」 「そういえば前の下関は52kgで走ってたっけ。重量調整かかるまでは落としてなかったけどよ、40歳近いのに無茶しすぎじゃないか?」 (当時の最低体重は男子50kg)
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2000年のオーシャンカップは普段から約4kgの減量で挑んだ西島義則にとって勝ちたい地元SGだった
イラスト/ツキシモ(@Tsuki_Shimo111)

 1kg体重差があると艇の伸びが1艇身違うと言われている世界、この頃よりさらに前の1980年代までは選手の間で減量合戦が当たり前に行われ、野中和夫は159cmの体格を42kgまで落として優勝したものの、表彰式では優勝カップを抱えられないほどフラフラになっていた。  その後、度を越した減量合戦に歯止めをかけるために男女ともに平成元年(’89年)から最低体重制が設けられ、現在では平成27年(’15年)の11月より現行の『男性51kg、女性47kg』に落ち着いている。  不安と期待が入り交じる初日ドリーム戦、西島はまさかの転覆失格。選手責任外の判定ではあったが、この時点では早くも戦線離脱かと思われていた。  しかし、2日目からの西島は初日の転覆などなかったかのような快進撃を続け、4日目までの5走を13112の成績で予選突破。準優戦も1枠にいた植木道彦をどかし、インを奪取したあげく.07のスタートで植木ほか5艇を完封する逃げを見せ、優勝戦へ駒を進めた。
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優勝戦は住之江賞金王を彷彿させる三つ巴の死闘に
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シナリオライター、演出家。親子二代のボートレース江戸川好きが高じて、一時期ボートレース関係のライターなどもしていた。現在絶賛開店休業中のボートレースサイトの扱いを思案中

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