大阪・ミナミの千日前にある宅見組の本部ビル。五代目山口組で若頭として辣腕をふるい、経済ヤクザとして名を轟かせた宅見勝組長が建てた
神戸山口組で相次ぐ幹部の離脱。戦局の変化に大阪府警も注目
若い世代の未来を考え、逆盃という業界のタブーを犯してまで決起した――そんな“大義”はむなしく崩れ去り、組織は瓦解寸前に陥っている。5年前の’15年8月27日、13人の直系組長が反旗を翻して結成した神戸山口組である。
日本最大の暴力団で起きた分裂騒動とあって、当初から抗争の激化が懸念されていた。事実、今日までに多数の暴行・殺人事件が勃発。ここに至るまでの大まかな流れは下記にまとめたとおりだ。
▼山口組分裂抗争の経緯
’15年8月 六代目山口組が分裂。神戸山口組結成
六代目山口組の最大組織だった山健組、宅見組、池田組など13団体が離脱し、神戸山口組を結成。挨拶状では司組長を「利己主義」と痛烈に批判した。六代目側は離脱派組長を絶縁・破門処分として全面対決に。
’15年9月~ 車両特攻、練り歩きが続発
神戸側による相手事務所への車両特攻や、繁華街を集団で練り歩く示威行動が全国各地で発生。その模様を撮影した画像・動画はSNSで流布され、ネット時代の新しい抗争様式として広まっていく。
’16年5月 池田組若頭が射殺
池田組ナンバー2の高木忠若頭が岡山市内で弘道会系組員に射殺される。有力幹部が殺害された初の事件で、神戸側の報復が予想されたが目立った動きはなく、その後の不協和音の原因になったとみられる。
’16年9月「サインください」事件
新神戸駅を下車した司組長を、色紙とペンを握った神戸側組員が「サインください」と怒号交じりに挑発した。いかつい風体の男たちが興奮しながらサイン色紙を突き付ける姿は、いろんな意味で問題の根深さをにじませた。
’17年4月 神戸山口組から任侠団体山口組が離脱
メディアに登場するなど一躍脚光を浴びた神戸側の織田若頭代行が山健組の3分の1近くを引き連れて離脱し、任侠団体山口組(現・絆會)を結成。記者会見を2度開き、井上組長の金権体質を痛罵した。
’17年9月 織田代表襲撃、護衛役が射殺
任侠・織田代表が乗った車両が神戸側に襲われ、護衛役の組員が射殺される。以降は任侠側からの声明が止まる。機関銃を小脇に抱えながら何もせずに逃走した、緑色の上着をまとった共犯の男はネット上で「ミドリマン」と呼ばれ話題に。
’18年5月 山健組が代替わり
井上組長が兼任していた山健組のトップが交代。中田浩司組長が襲名する。ただ、山健組内での井上組長への会費の上納は続いたため、重い金銭負担がその後の離脱の引き金になったとの見方もある。
’19年10月 髙山若頭が出所
恐喝罪での6年の刑期を終えて髙山若頭が出所。この前後、六代目側が自動小銃を繰り出して神戸側への殺傷事件を続出させる事態に陥り、両組織は特定抗争指定暴力団に指定された。
’19年12月 中田組長が銃撃事件で逮捕
同年8月の弘道会系組員に対する銃撃事件の実行犯として兵庫県警が中田組長を逮捕する。最高幹部自らがヒットマンとなった異例の事件で、神戸側の人材不足が露呈したかたち。
’20年7月 中田組長、池田組長が離脱
中田組長が獄中で山健組の神戸からの離脱を指示し、半数以上が従う。若頭が2度襲われた池田組も脱退。いずれも井上組長への不満が原因とみられ、中核組織の離脱は、他の直系組長の駆け込み引退を生じさせている。