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番外編その3:「負け逃げ」の研究(15)

 ケージ(=キャッシャー)に向かう途中に、教祖さまが坐っているバカラ卓があった。

 卓上に積み上げられた1000HKDのキャッシュ・チップでつくるスタックは、2本とちょっと。

 ずいぶんとやられているようだ。

 そうであるなら、教祖さまの裏を張り、さっきの負けを取り戻す。

 わたしの内部に、スケベイ心がもこもこと湧き起こってきた。

「参加してよろしいですか?」

「どうぞ、どうぞ。しかし、ケーセン(罫線)はよくないですよ。あっち行ったり、こっちに来たり」

 確かに、わかりづらいケーセンだった。

 ピンポン(プレイヤー・バンカーと交互に勝ち目が現れるもの。いわゆる「横目」)かと思えば3目(もく)落ちて、じゃ、3目切れかと思うと、5目まで伸びる。

 それでもいいのである。

 出目の画を参考にしてベットする気は、わたしに毛頭なかった。

 じゃ、何を参考にして大切なおカネを賭けるのか?

 この局面この場合は、教祖さまだ。

 落ち目の人間の裏を張る。

 俗に言う「人間(ホシ)ケーセン」である。

 教祖さまは、1000HKDチップ100枚でワン・スタックとしていくので、卓上に積み上げられたそれは、かなり不安定な状態だ。

 わたしは勝負卓を揺らさないよう、静かに席についた。

「あんまりチップを高く積み上げていると、何かの拍子に崩れますよ」

 とわたし。

「いやいや大丈夫。念力が籠もったキャッシュ・チップですから」

 と訳のわからないことを言う、教祖さま。

 宗教の人だから、訳のわからないことを口走るのは仕方ないのかもしれないが、それにしてもヤバソー。

 あまりかかわりにならない方が、よさそうだ。

 わたしは、短期勝負に決めた。

 わたしが坐ってからの初手は、教祖さまが2万HKDのプレイヤー・ベット。

 ならばわたしは、同額の裏目バンカー・ベット。

 数字など憶えていないけれど、プレイヤー側の簡単な勝利でした。

 ん?

 まあ、そういうこともあるさ。

 次手、教祖さまはダブル・アップで4万HKDのプレイヤー・ベット。

 ほんじゃわたしは、同額の裏目バンカー・ベット。

 これも数字は覚えていないが、やはりプレイヤー側の楽勝だった。

 ん、ん?

 わたしの手持ちは、1枚の1万HKDノンネゴシアブル・チップのみとなった。

 これでは勝負にならない。

「ちょっと待ってください。兵隊を補充してきます」

「ええ、いくらでも待ちますよ。あなたが幸運を引き連れてやって来てくれたのだから」

 どうやらわたしは、落ち目の打ち手にも舐められてしまったようだ。

 わたしはケージに向かおうとした。

 勝負卓でもノンネゴシアブル・チップの追加バイ・インは可能だが、ケージでおこなうより時間がかかるからである。

 とにかく、短期決戦を目指す。

 ぽんぽんぽん、と200万円相当の勝利をもぎ取って、はい、フィニート。

 立ち上がるときに、わたしの腿が軽くテーブルに触れた。

 故意じゃなかった、と信ずる(笑)。

 テーブルが揺れて、教祖さまが積み上げていた1000HKDチップのスタックが崩れた。

 1本100枚の不安定な山である。

 全面崩壊だった。

 バカラ卓の上のみならず、絨毯の上にも緑赤色の1000HKDキャッシュ・チップが四散した。

「あわわっ」

 と教祖さま。

「ありゃ、ごめんなさい」

 と殊勝に詫びるわたし。

 あんなチップの積み上げ方をしているほうが悪いんじゃ、と内心では舌を出していたのだが。

⇒つづきはこちら
番外編その3:「負け逃げ」の研究(16)

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番外編その3:「負け逃げ」の研究(14)

 あと200万円。

 この2日間で間違いみたいに1000万円近く勝っているのだから、あと200万円程度を得るための打ち方は、それほど難しくないはずだ。

 一番簡単な方法は、ここぞという一手に14万HKD(210万円)を賭け、外したら、その倍・倍とベットしていけばよろしい。

 一手目が14万HKD、二手目が28万HKD、三手目が56万HKD。

 三手のみ限定のマーティンゲイル法である。

 勝ったら、そこで打ち止め。

 フィニート。目標達成、おめでとうございます、となる。

 ところが、負けているときはどうあれ、勝っているときというのは、一般にリスクを取りづらい。

 ここが不思議なところだった。

 Money to burn.

 燃やしてもいいカネを持っているはずなのに、手が縮こまる。

 なぜか、守りに回ってしまう傾向をもつ。

 一方、悪い状態のときには、リスクを冒す。

 瞬発で取り戻そうとし、大きく行く。

 これは社会心理学の領域で、「プロスペクト理論」として知られる現象だそうだ。

 利益を得る局面では、確実性を好み、損失している局面では、大胆な行動をとる。

 人間の心理の問題だけではなくて、この現象は脳化学(つまり、ケミカルの方)的にも説明できるらしい。

 浮いているときにはとてもベットできないような金額を、沈んでいれば、えいやあ、と行ってしまう。

 平たく申せば、やけくそベット。

 博奕(ばくち)勝利のためのセオリーとは、まるで逆な行動であろう。

 カジノでは、勝敗確率が約50%のゲームを戦っているはずなのに、勝つときは雀の涙、負けるときは大やけど、となる理由がここにある。

 それゆえ、ほとんどのカジノ愛好者たちの生涯トータルは、悲惨なものだ。

 またそれゆえ、カジノ資本は、おとぎの国のお城みたいなビルをどんどんと建ててられる。

 Money to burn.であるならば、そのカネを燃やすのだ。

 勝っている局面で、リスクを冒す。

 どかんと行く。

 一方、負けている局面では小心なベット。

 ただし、言うは易(やす)し、おこなうは難(かた)し。

 頭ではわかっているつもりでも、実践では「プロスペクト理論」に支配されてしまうことも多い。

 欲をもちつつ、確実性を求める。

 まったくの矛盾だ。

 これまで何回も述べてきたように、しかし、博奕(ばくち)の本質は、矛盾なのである。

 話を、Iさんや岸山さんと同席しているバカラ卓に戻そう。

 Iさんの快進撃に、ベットする方向ではまる乗りしていたのにもかかわらず、わたしのチップが溶けていく。

 駒の上げ下げが、まるで狂っていた。

 Iさんが厚いベットで勝利する際に、わたしのそれは薄い。

 逆に、Iさんが薄く行っているのに、わたしのベットは厚くて、その手を落とす。

 歯車が噛み合わないときなんて、こんなものだ。

「ローリング」

 わたしは声を張り上げ、壁際に控えるローリング娘を呼んだ。

 このシュー3回目のローリング(=キャッシュ・チップからノンネゴシアブル・チップへの交換)で、わたしに戻されたノンネゴシアブル(=ベット用)・チップは、7万HKD(105万円)ちょうど。

 駒の上げ下げで下手を打ち、わずかな時間に23万HKD(345万円)を溶かしてしまった。

 マートイ・タイで事故みたいにして得た30万HKDの残りかすである。

 こりゃ、あかん。

 バカ、アホ、間抜け。

「のちほど」

 Iさんと岸山さんに軽く会釈すると、7枚になってしまった1万HKDのノンネゴシアブル・チップを握りしめ、わたしはこのバカラ卓を立った。

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番外編その3:「負け逃げ」の研究(13)

 一手で450万円の配当を受け取ったわたしは、そのままケージ(=キャッシャー)に向かう。

 なんてことは、やはりなかった。

 そこまで、人間ができていない。

 朝方博奕での勝利分を含めると、この日の「日当」は、すでに50万HKD(750万円)を超した。

 前日の他のハウスでのアガリ分を合わせれば、1000万円ちかい。

 あと200万円ちょっとで、過去3戦で失った1200万円を取り戻せるのだ。

 ここは一気に行くべきだろう、とわたしは思った。

 残り、たったの200万円相当なのだから。

 じつは、200万円というのは大金だ。

 充分理解しているつもりなのだが、博奕場ではそれがわからなくなってしまう。

 ロバート・グッドマンが指摘した、「希望の病理」の罠にがんじがらめに捕らえられる。

 チップを考え出した奴は悪魔である。

 この言葉を忘れてしまう。

 それまで、背後に立って観戦していたのだが、わたしも卓に坐る。

 デポジットを引き出す必要もなかった。

 前手でのマートイ・タイの勝利分30万HKD(450万円)が原資である。

 ただしこの30万HKDは、キャッシュ・チップで配当されたものだから、またまた、

「ちょいと、失礼」

 と断り、Iさんから同額のノンネゴシアブル・チップと交換してもらう。

 ローリング娘を呼びたくなかったからだ。

 やはり、「博奕のリズム」。

 これが途切れることを避けたい局面なのである。

 勝っているときは、それまでと同じことを繰り返したい。

 ここいらへんでは、「ツキが逃げていくから」、とローリングを拒否する教祖さまとあまり変わりはなかった。

 ただし、教祖さまの方は、負けていてもそうなのだが、わたしの場合は勝っている局面だけ。

 そういえば、教祖さまの坐るバカラ卓は静かなものだった。

 ずるずるとやられているのか。

「次のクー(=手)は?」

 やっと地上に舞い戻ってきたIさんに、わたしは訊いた。

「そのまま、残しましょう」

 とIさん。

 つまり、前手での勝ち金は回収するが、オリジナル・ベットは置かれたままにしよう、ということである。

 わたしにとって、イロモノへの3万HKDのベットは大きすぎる。しかしここはまあ、30万HKDを稼がせてくれたことに対するご祝儀みたいなものだった。

 甘い。

 その批難は、受け入れよう。

 やっぱりそんなに好都合にものごとは進行しないもので、このクーでは、トイチもタイも起こらずに、プレイヤー側は3という情けない持ち点ながら、バンカー側が4から3枚目で7を引き自滅した。

 Iさんのプレイヤー側10万HKDのベットに、勝ち金が付けられる。

 ナチュラルなんか起こすより、ずっと気持ちがいい勝ち方だった。

 Iさん、絶好調。

 こういうときは、つまらぬ意地など捨てて、絶好調の打ち手に乗る。

 博奕場でのセオリーであろう。

 賭金量は異なれども、わたしはIさんのベットに乗った。

 勝ったり、負けたりした。

 卓上に積まれたIさんのキャッシュ・チップ(つまり、勝利したときに付けられるチップ)は、どんどんと増えていく。

 ノンネゴシアブル・チップ(つまり、ベットするためのチップ)を含めたわたしのそれは、どんどんと減っていく。

 おかしい。

 駒(コマ)の上げ下げが狂っている。

 濡れ手に粟で儲けた30万HKDだと思い、勝負に参加したのが間違いだったのか。

 額に汗して得た30万HKDだろうと、事故のようにして稼いだ30万HKDだろうと、その違いは一切ないはずだ。

 両者とも、450万円分の信用がついている、ただの紙っぺらなのだから。

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番外編その3:「負け逃げ」の研究(12)

 グリーンの羅紗(ラシャ)に顎を擦りつけるようにしてIさんが絞り起こしていたプレイヤー側1枚目は、セイピン(横のラインに4点が現れるカード)の9。 「おおっ」  肚の底からの3人の吐息というかうめき声が、同時多発的に漏れ […]

番外編その3:「負け逃げ」の研究(11)

 本日の「労働」は終了、と思っていたのに、そして通常カジノでイロモノには手を出さないはずなのに、 「ちょっと失礼」  わたしはIさんから1万HKD(15万円)チップ3枚を借用すると、プレイヤー・バンカーの両サイドのトイチ […]

番外編その3:「負け逃げ」の研究(10)

 スパのマッサージ台で目覚めたのが、午後2時過ぎ。  身体には純毛の毛布が掛けられてあった。  マッサージの途中で、あまりの心地よさに「落ち」てしまったのだろう。  熟睡だった。  エキサイティングでスリリングなアクショ […]

番外編その3:「負け逃げ」の研究(9)

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番外編その3:「負け逃げ」の研究(6)

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