ばくち打ち
第5章:竜太、ふたたび(10)
なるほど、金持ちたちは、こういうホテルに泊まるのか。
居間と簡単なキッチンつきで、バルコニーの部分を含まなくても、80平方米はある部屋だった。
「すんごい」
みゆきが驚きの声を挙げる。
この日の朝まで、セント・キルダのホステルに泊まっていたのである。
部屋の豪奢ぶりが、なおさら強調された。
「まずメシだ」
竜太の腹が鳴っている。
みゆきの荷物の整理を待ってから、町に出た。
著名なリゾート地だけあって、人口3000人の町としては、レストランが多い。
携帯を参照しながら歩いているみゆきが、FENという名のレストランの前で、立ち止まった。
「ここが街一番のレストランだって。ずいぶん高そう」
みゆきが続ける。
「値段だけじゃなくて、敷居も」
そう、そこが問題なのである。
迷っていた、みゆきが言った。
「さっき前を通ったお店のピザをテイクアウトして、ホテルで食べようよ。ウオーター・フロントで、バルコニーには食卓まであったのだから、そっちのほうがずっと豪華な気分が味わえる」
竜太に異存はない。
リゾート地の高級レストランで、外人に囲まれながら緊張してロブスターを食べるより、ホテルの部屋で海を見ながらピザを喰っていたほうが、竜太にとってはよっぽど美味いのである。カネの問題ではなかった。
ちょっと厄介な仕事の手伝いを頼んだだけの関係のはずだが、どうやらこの女とは気が合う、と竜太は思い始めた。
「ビールも買っていく?」
みゆきが訊いた。
「部屋の冷蔵庫に冷えたのがあるだろ」
まるで、愛し合うカップルの日常会話のようだ。
竜太は腹の中で苦笑した。
* * * *
竜太のそれから、わずか50センチほどの間隔が置かれたベッドで、みゆきが眠っていた。
このホテルに同室することを決めた際、
――紳士的な振る舞い、
を竜太はみゆきから要求されている。
すぐ隣のベッドで、歳若い女がちいさな寝息を立てていた。
さて「紳士」とは、こういう状況下で、どう行動するのだろう。「紳士的」とは、具体的にはいったいどういうことなのか?
竜太は右掌で自らのちんぽこを握りしめながら、考える。
やるべきか、やらざるべきか?
いや、やったほうがいいのか、はたまた、やらないほうがいいのか?
おそらく「紳士」なら、やるのだろう。
それが自然の摂理というものだ。「紳士」は摂理に逆らわない。
ハムレットばりの深い悩みに、竜太は勝手ながらそう結論した。
竜太は、そっと自分のベッドを脱け出した。
素っ裸である。
クラウン・カジノで真希のカジノ・チップを持ち逃げしてから、ずっと着の身着のままだった。パジャマなんて洒落たものはもっていない。
みゆきが眠るベッドのシーツを持ち上げた。
「やっぱり、来たのね。来ると思った」
小さな声で、みゆきが即座に反応した。
敵もさるもの。
どうやらみゆきは、タヌキ寝入りをきめこんでいたらしい。
さて、竜太はこれからじっくりと、「上から下からうしろから」の「紳士的な振る舞い」をおこなうつもりである。
第5章:竜太、ふたたび(9)
「フリーウエイの速度制限は、110キロよ。10キロ・オーヴァーまではセーフだそうだから、120キロ以上は出さないで」
すこし怯えた声で、みゆきが言った。
「ロジャー」
竜太は応える。
この片側3車線、時として4車線の道路環境では、スピードが出過ぎてしまうのである。
しかも、この車体重量でこのパワー。
尻の下で力強く躍動するエンジンに、竜太は痺れた。
「1000ドル・チップを9枚、最初にキャッシャーに差し出した時には、怖かったのよ」
時速120キロの安定走行となると、落ち着きを取り戻したみゆきが言った。
「別に悪いことをやっているわけじゃないんだから、怖がることなんてなかったさ」
じつは自分がクラウン・カジノのVIPフロアでやってきたことはまるで犯罪だったのだが、竜太はしらじらしく言い返した。
「ほんとね。でも、やっぱり怖かった。ところが、どうということはなかったの。キャッシャーの女の人も、普通の事務処理をするように、90枚の100ドル紙幣を渡してくれた。日本円にすると81万円の大金なのにね。ほかのキャッシャーでも、またその次のキャッシャーでも」
「あそこの三階には、『マホガニー・ルーム』っていうVIPフロアがあるんだが、そこじゃ一手に10万ドルくらい賭けている奴が、ざらにいた。900万円だぜ。カネってのは、あるところにはあるもんだ、と俺はしみじみ思ったね。しかも『マホガニー・ルーム』は『一般』用のVIPフロアなんだって。上の方の階にあるVVIP(very very important person)用のフロアになると、もっともっと、すんげーらしい」
竜太は応えた。
「へええ」
「その昔、日本の消費者金融会社の会長なんて、あそこのバカラ卓で一晩に20億円以上負けたのに、へらへらと笑っていたそうだ」
車窓の左側にタスマン海が現れた。
真夏の太陽を反射して、波がきらきらと金色に輝いている。
四輪駆動は、グレート・オーシャン・ロードを快調に駆け抜けた。
地図上では300キロ弱のはずだが、メルボルンでレンタカーを借りた地点から400キロくらいは走ったはずだ。
もう、どこもかしこも「景勝地」といった風景である。
「ここいらへんで、町に降りようか。お腹も減ったし」
みゆきが提案した。
竜太に異存はない。
時間とカネは、充分にあった。
何をしなければならない、ということがないのである。やりたいことをやりたい時間にやりたいだけ、する。
インターセクションの表示は、ポート・フェアリーとあった。
「その昔、捕鯨基地として栄えた人口約3000人の町。ちょうどいいね」
携帯を見ながら、みゆきが言った。
町を通り抜けると、モイン川沿いに、古い大きな邸宅を改造したホテルがあった。
「こういうところ、泊まってみたい」
とみゆき。
「でも、高そうだな」
と竜太。
まあ、高くても構わないのだが。
「部屋が空いてるか、聞いてくるね」
3分ほどして車に戻って来たみゆきが言う。
「キャンセルがでたところで、ちょうど一部屋だけ空いてる、って。このホテル、四部屋しかないそうよ。問題は、料金ね。ハイシーズンだから、一泊550ドル」
一晩5万円。まっ、いいか。
「同じ部屋でいいのかよ」
「ツイン・ベッドだから、竜太さんが紳士的振る舞いをしてくれれば、わたしは問題ない」
新宿歌舞伎町のロクデナシばくち打ちに、「紳士的振る舞い」を求めるってのは、なんだかなあ。
でも、これで決まった。
第5章:竜太、ふたたび(8)
その日の分のホステル代もなかった。
着の身着のままなのだから、荷物もない。
レセプションにロッカーの鍵を返せば、それがチェックアウトだった。
前日と同じマクドナルドに寄って、ビッグマックを買う。
ピアの南北に広がる海洋公園のベンチで、それを喰った。
もう、ビッグマック8個分の現金しか残っていなかった。
驚くぐらい端正に整備された海洋公園のベンチの上で、着の身着のままのホームレスが餓え死にか?
そんな状景すら、頭に浮かんだ。
発見者は驚くはずだ。
なにしろ、上着の内ポケットに「現金と同じもの」である3万ドル分のカジノ・チップを入れたまま、東洋人が餓死しているのだから。
こいつはバカか?
そう思われても仕方ないのだろう。
竜太の頭の中を、悪い妄想が渦巻く。
いやいや、そんなことになるはずがなかった。
必ず360枚の100ドル紙幣を持って、みゆきは戻ってくる。
いまの竜太には、そう信じるしかない。
* * * *
2日後には、レンタカーのハンドルを握っていた。
借りたのはみゆきの国際ライセンスでだったが、竜太は日本の免許証しか持っていない。ネット情報によれば、オーストラリアではそれでもなんとかなるらしい。
「どっち、行く?」
助手席に坐るみゆきに、竜太は訊いた。
カネはある。時間も腐るほどあった。
これが自由というものなのだろう。
竜太は自分の幸運に感謝する。
なに、幸運だって実力の内なのである。
「まずインド洋を見に行かない?」
助手席に坐ったみゆきが答えた。
メルボルンから西オーストラリア州の最西端まで、3500キロは車を走らせようという提案である。
竜太に異存はなかった。
西オーストラリア州がどこにあるのかも竜太には不明だったが、それでも構わない。
オーストラリアの道路標示は、わかりやすかった。
というか日本の都市部の道路標示が、道路標示の役目を果たしていないだけなのか。
表示にしたがって、右折や左折を5度ほどおこなえば、もうそこはM1のフリーウエイだ。
M1は、オーストラリアの海沿いをぐるっと回って全長1万4500キロもある、世界一長いハイウエイ・システムだそうだ。
「ここ、ずっと行けば、南オーストラリア州に出る」
携帯でマップを見ながら、みゆきが言った。
「途中で、グレート・オーシャン・ロードっていう、世界的に有名な景勝地を通るはずよ」
竜太はトヨタ・ランドクルーザー・プラドGXLのアクセルを踏み込んだ。
4000cc6気筒は気持ちよく加速する。
こんなバカでかい4輪駆動を借りたのは、いわゆる「レッド・センター」と呼ばれるアウトバックにも行く可能性を考えたからだ。
食料と水、そして十分な燃料さえ積み込めば、どこにでも、行ける。いつでも、行ける。
それが、自由というものだ。
ほんの2日前には、自分が餓死するかもしれない、と恐れていたのも忘れ、新宿歌舞伎町のゴキブリばくち打ちは意気軒昂だった。
片側2車線か3車線のうえに、日本のハイウエイに比べれば交通量もなきに等しい。
気づかぬうちに、速度計の針は150キロを超えていた。
「ちょっと、やばいよ」
みゆきが言った。
第5章:竜太、ふたたび(7)
「パスポートはカジノに入場する際に必要だ。ただし日本の運転免許証と携帯電話を預からせてもらうよ」 申し訳なさそうに、竜太は言った。 「なんで?」 とみゆき。 「パスポートは、カジノ入場の際の年齢確認のために必要となる […]
第5章:竜太、ふたたび(6)
「そしてここは重要だ。去っていく立ち賭けの連中といっしょに、きみもテーブルから離れる。これなら自然だ。ベットしようと思っていたのに、『ツラ』が切れてタイミングを失い、他のテーブルを探す、という流れなのだから。すると、きみ […]
第5章:竜太、ふたたび(5)
「野郎、ホテルの金庫から俺の博奕(ばくち)のタネ銭も含め、キャッシュを洗いざらい持って逃げやがった。ポケットにあったカジノ・チップだけが残ったんだ。さてこのチップをどうやって現金化するか、思い悩んでいたところなんだよ」 […]
第5章:竜太、ふたたび(4)
倒れ込んだベッドの上で、そのまままどろんでしまったようだ。 竜太は空腹で目覚めた。 窓の外には、夕闇がせまっている。 機内では、クリュグとかいう名のシャンパンを浴びるほど飲み、夜食は片づけたが、朝食を摂っていなか […]
第5章:竜太、ふたたび(3)
セントキルダのピア(桟橋)の前で、古い型のホールデン6気筒のタクシーから竜太は降りた。 西はきらきらと輝く真夏の海、東には2階あるいは3階建ての煉瓦家屋と背の低いビルが混在する。オーストラリアとしては珍しく都市計画が […]
第5章:竜太、ふたたび(2)
避けられる危険は、避ける。 新宿歌舞伎町のばくち打ちには、一時なりとも忘れてはならない心得だった。 そうでもしなければ、命がいくつあっても足りない稼業なのである。 竜太は、カジノのザラ場(=一般フロア)でチップを […]
第5章:竜太、ふたたび(1)
席前に残ったチップをすべて上着のポケットに突っ込むと、竜太は逃げた。 クラウン・カジノのプレミアム・フロア「マホガニー・ルーム」を出ると、下りのエスカレーターも使わずに、階段を駆け下りた。 かっさらってきたチップの […]