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なべおさみが語った海の底の20数年「本を書いたのはヒマだったから」

やくざと芸能と 私の愛した日本人 なべおさみ(著) 今、ある一冊の本が静かな話題となっている。本のタイトルは『やくざと芸能と 私の愛した日本人』。帯にある「知られざる昭和裏面史」の惹句のとおり、本では、白洲次郎の粋、VAN創業者・石津謙介のクールさ、下積み時代の野坂昭如のユーモアと無頼、水原弘に勝新太郎、石原裕次郎、美空ひばりら昭和の大スターたちの素の姿など、昭和の芸能界の裏面が綴られる。  同時に、安藤組大幹部・花形敬、“ボンノ”の通り名で知られた菅谷組組長・菅谷政雄、山口組六代目・司忍……といった昭和の大物やくざも登場。さらには、政商・小針暦二から始まる安倍晋太郎ら、政界とのかかわり(1983年の衆院選・北海道5区での中川昭一と鈴木宗男の骨肉の争いの裏側まで!)も描かれる。  この本を書いたのは、なべおさみ。なべおさみといえば、ある年齢以上の人にとっては『ルックルックこんにちは』の「ドキュメント女ののど自慢」の司会者、という印象が強いかもしれない。そして、多くの人にとっては、1991年に起きたいわゆる「明大裏口入学事件」で記憶は止っているだろう。この事件を機に、なべは芸能活動を自粛。華やかな表舞台からは姿を消していた。  なぜ、今、この本を出版したのか? この問いかけになべは、「ヒマだったからですよ」と静かに笑いつつ、芸能活動を自粛していた期間のこと、そしてこの本に託した思いを語った。 なべおさみ(以下、なべ):一応、ボクは役者だから、役者の仕事がないっていうのは非常にしんどいんですよね。そのしんどさから逃れるというと言い方はおかしいけれど、書くことが助け道になってたんだよね。ものを書いていると1時間、2時間はあっという間にたつ。その間は、心身を損なわなくてすむ。  1991年5月1日に蟄居生活に入って、そこからの日々は、喩えるなら、海の底を歩いているんだけれど、自分ではどうしようもできない。ときどき、救ってくれる“蜘蛛の糸”が下りてきて、それにすがると少し深呼吸ができて、またブクブクブクって沈んでって感じかな。  でもね、その海の底で23年くらい歩いていたら、それ以上は底がないって気づいたね。あとは浮くだけだから、体さえ壊さなければいい。ゴルフにしても麻雀にしても、ムリはしない。夜更かしをしたら、翌日はうんと寝る。どうせヒマなんだから。体に優しさをかけてあげながら、じっと耐えて。そして、ものを書くことで救われてきたんですよね。 ――しかし、事件当初は“海の底”で静かに過ごすこともままならなかったのも事実のよう。自宅の電話は鳴りっぱなし。受話器を取れば無言電話か、「あんたの息子のせいで!」というどこかの母親からの罵倒の声。また、弱っている心につけこむ人もいたという。 なべ:騙されてきましたよ(笑)。優しい言葉に弱くなってしまっていて、ちょっと優しいことを言われたら、女房と手を取り合って喜んで涙していた時期ですから。  業界では名の知られた人がうちに来て、「キミはこのまま終わる人間じゃない」なんて言われたら、「ええー!」って舞い上がっちゃうでしょ。しかも、携帯電話を取り出して、「今、なべおさみさんの家にいるんだけど、すぐ来れるかな?」って、その場で広告やラジオ、雑誌など業界のおエラいさんを次々と呼びつけるんだよ。  それで、「3か月後にCM」とか、「隔月で雑誌記事」とか約束を取り付けてくれて。それぞれに、「数か月分の給料を出せるかな?」って言われたとき、「はいはい」ってなっちゃったんだよね。今思うと、おかしな話だけど(笑)。  その一方でね、「うちの会社の顧問をやってくれないか」と言ってくれて、2年間援助してくれた知人もいた。やっぱり、天は“蜘蛛の糸”でそういう人を遣わしてもくれる。だから、甘い言葉に騙されたのは、私のミステイクなんだよね。 ――そんな蟄居時代、なべのもとに下りて来た“蜘蛛の糸”として、もっとも太く、そして、その後の生き方をも変えることになったのが、ある1本の電話だった。 なべ:イタズラ電話に無言電話ばかりの頃だったから、女房も「電話、とらなくていいわよ」って言ってたんだけど、たまたまボクがとっちゃったんだよね。  そしたら開口一番、「わし、お前好きやなー」「日本で2番目に好きやわー」って。言ったとおり、かなり弱っていたときだから、無条件にうれしくてね。続けて、「お前、わしに会いにこんかい?」って。「どなたですか?」って聞いたんだけど、「言うてもわからん。せやけど、ヒマやろ。まあええ。切符送ったる」、ガチャ、ですよ。  そうしたら、本当に数日後、京都までの新幹線のグリーン車の片道切符が送られてきたんです。女房は最初、「行かないほうがいいわよ!」って言ってたんだけど、まあ、人間万事塞翁が馬、馬には乗ってみろ、人には添うてみろって言うし、着の身着のまま普段使ってるセカンドバッグひとつ持って、京都に向かったんです。 ――京都でなべを待っていたのは、大きな黒塗りのクルマ。しかも、菊の御紋までついている。このとき、なべの頭には軍艦マーチのリズムが流れ出し、「マズい」「終わりだ」と思ったという。断れぬままクルマに乗ったところ、なべを迎えた小さな男は、「違いまっせ」「右翼でもやくざでもおまへん」と見透かしたように言ったという。  クルマが向かったのは、天台宗総本山 比叡山延暦寺。延暦寺の塔頭である赤山禅院に導かれ、そこで、なべは自分を呼び寄せたのが、天台宗修験道管領 叡南覚照大阿闍だと知る。 なべ:到着した早々に、「なべちゃん、まあまあ、上がれ」って言うんだよね。そして、「いろいろ大変だったな~。今度、何か問題があったら、ここへ逃げてこい」「院という名がついた建物は、出口は四方についている。報道関係者がなんぼ押し寄せても、逃げ道は三方あるで」って。こちらとしては、「もうこれ以上、責められたくないですよ」って気持ちだけど(笑)。  そうして、なんだかよくわからないままに律院というところで8日間、行をして、身を清め、比叡山の玉照院へ入り、千日回峰行を行っていた上原行照行者の身の回りのお世話をすることになったんです。 ⇒【後編】『「頑張って」という言葉は無情だ』に続く
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【なべおさみ】 1939年、東京生まれ。本名は渡辺修三。 1958年、明治大学演劇科に入学。すぐに三木鶏郎門下となり、在学中からラジオ台本などを書く。その後、水原弘とともに渡辺プロダクションに入り、水原や勝新太郎の付き人を務め、水原の退社後はハナ肇の付き人となる。 1962年に明治大学卒業。1964年、日本テレビ系列『シャボン玉ホリデー』でデビュー。 1968年には山田洋次監督『吹けば飛ぶよな男だが』に主演。その後、数多くのテレビやラジオ、舞台で活躍するも、1974年に渡辺プロダクションを退社し、森繁久彌の付き人に。1978年から日本テレビ系列『ルックルックこんにちは』の「ドキュメント女ののど自慢」の司会を務める。 1991年、いわゆる明大裏口入学事件により、芸能活動を自粛。現在は舞台や講演活動を中心に活動。著書に『七転八倒少年記』『病室のシャボン玉ホリデー』などがある。 <構成/鈴木靖子>
やくざと芸能と 私の愛した日本人

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