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ケビン・ナッシュ&スコット・ホール&ショーン・ウォルトマン まぼろしのユニット“ウルフパック”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第84話>

 イベントの“進行台本”にはなかったこの行動はビンスを激怒させたが、ナッシュとホールはこの試合を最後にWWEを退団し、マイケルズとトリプルHはWWE残留を選択した。  ホールはそれから8日後、WCWの月曜夜のプライムタイム番組“マンデー・ナイトロ”に乱入し、ナッシュも2週間後に同番組に登場。ウォルトマンも3カ月後にWCWと契約した。  WWEが版権を保有するレーザー・ラモン、ディーゼルというリングネームは使えないためホールとナッシュはそれぞれ本名に戻り、ウォルトマンにはシックスSyxxという新リングネームが用意された。  ナッシュが番組に初出演した日(1996年6月10日)から“ナイトロ”の視聴率はいきなりハネ上がり、ホーガンがまさかのヒール転向を果たしナッシュ&ホールと合体したnWoドラマが新しいブームを呼び込んだ。  “ナイトロ”はそれから83週間連続で同時間帯放映のWWEの“マンデーナイト・ロウ”の視聴率をリードした(1998年4月13日オンエア分でWWEが0.3パーセント差で逆転)。  “クリック”のWCWへの移籍はWWEを崖っぷちに追い込み、メジャー2団体のパワー・バランスをひっくり返したのだった。  ナッシュとホールとウォルトマンは3人だけのユニット、リング上のキャラクターとプレイベートの境界線のないファビュラス・フリーバーズのようなトリオを結成するつもりだった。  チーム名は“ウルフパックWolf Pac”に決まっていた。しかし、このプランはエリック・ビショフWCW副社長が突然、ウォルトマンだけを解雇したことで実現しなかった(1997年12月)。  ウォルトマンはXパックの新リングネームでWWEに復帰し、ナッシュはWCW内部の政治面にほんろうされ、ホールはアルコール依存症でリングを離れた。  WCW崩壊後、3人はWWEのリングで短い再会を果たすが、それも長くはつづかなかった。  ナッシュはWWE退団後、俳優として映画『パニッシャー』『ロンゲストヤード』に出演。ウォルトマンはジョーニー・ラウアー(元チャイナ)との実生活での婚約―婚約解消といった恋愛ドラマでタブロイド紙とパパラッチの標的にされた。  ナッシュもホールもウォルトマンも引退宣言はしていないし、いまでも気が向いたときだけリングに上がる大物フリーエージェント。  “ウルフパック”は仲のいい3人の胸のなかでいまでも生きつづけているのである。 ●PROFILE:ケビン・ナッシュ&スコット・ホール&ショーン・ウォルトマンKevin Nash & Scott Hall & Sean Waltman ナッシュは1959年7月9日、ミシガン州デトロイト出身。ホールは1958年10月20日、フロリダ州オーランド出身。ウォルトマンは1972年7月13日、フロリダ州タンパ出身。WWEで活躍後、1996年に“時間差”でライバル団体WCWに移籍。ウォルトマンだけが1998年4月にWWEに復帰した。WCW崩壊後、ナッシュとホールも2002年1月、WWEと再契約。ホールは2014年にレーザー・ラモンとして、ナッシュは2015年にディーゼルとしてそれぞれWWEホール・オブ・フェームで殿堂入り。現在は3人ともフリーエージェント。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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