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オーエン・ハート 悲劇の“天才レスラー”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第82話>

オーエン・ハート 悲劇の“天才レスラー”<第82話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第82話は「オーエン・ハート 悲劇の天才レスラー」の巻(Illustration By Toshiki Urushidate)

 オーエン・ハートはハート家の12人兄弟の末っ子として生まれた。父スチューが50歳のときに誕生したいちばん下の男の子で、一家のベイビーとしてカルガリーの丘に立つお屋敷で育った。  長男スミスとは15歳もトシが離れていたし、オーエンがティーンエイジのころには兄、姉たちはもうおとなになっていたから、いつも必ず家にいるのは八男坊オーエンだけだった。  父スチュー、母ヘレンとだれよりも長い時間を過ごし、両親といちばん仲がよかった息子といわれるが、それは親子というよりはおじいちゃん、おばあちゃんと孫のような関係だった。  オーエンは少年時代からプロレスラーになることを心に決めていた。ハイスクールでアマチュア・レスリング部に入ったのは父親を喜ばせるためで、アマチュア・ルールのレスリングそのものはそれほど好きではなかった。  地元のカルガリー大学でもレスリングをつづけ、CIAU全カナダ選手権で3位(177ポンド級)の成績を収めたこともあったが、大学は3年の途中でやめた。  学生時代からリング・クルーとして家業を手伝い、急にケガ人が出たり、カードに穴が開いたりすると“正体不明のマスクマン”としてよく試合に出場していた。  正式なデビューは1986年5月で、ルーキー時代のライバルはマスクマンのベトコン・エキスプレスとしてスタンピード・レスリングで武者修行中だった馳浩、ハート家にホームステイしていたブライアン・ピルマンBrian Pillman、ジョニー・スミスJohnny Smith、新日本プロレスでの“留学”を終えてカルガリーに帰ってきたクリス・ベンワーChris Benoitらだった。  素顔の獣神サンダー・ライガー、ハシフ・カーン(橋本真也)、ベンケイ・ササキ(佐々木健介)らカルガリーに長期滞在した日本人レスラーと闘う機会も多かった。  “カルガリーの天才児”と呼ばれたオーエンは、WWEのリングでは長い下積み時代を経験した。  カルガリーと新日本プロレスの遠距離ツアーをつづけたのちに1988年にWWEと専属契約を交わしたオーエンを待っていたのは、青いマスクと青いマントのブルー・ブレーザーBlue Blazerというマスクマンとしてのキャラクターだった。この“青い輝き”のコスチュームがやがて悲劇を招いた。  “ブレットのかわいい弟”という前座のポジションから抜け出すには、兄ブレット・ハートにケンカをふっかけるしかなかった。  オーエンがヒールで、ブレットがベビーフェースという兄弟ゲンカが“レッスルマニア10”(1994年3月20日=マディソン・スクウェア・ガーデン)で実現し、オーエンは生まれて初めてブレットからフォール勝ちを収めた。優等生タイプだったオーエンが、あえてヒールの道を選択した。  オーエン対ザ・ロック、オーエン対“ストーンコールド”スティーブ・オースチンというミレニアム=新千年紀のキーパーソンズとの意外なシングルマッチも実現した。  シングルプレーヤーとなったオーエンは、ロッキー・メイビア(のちのドゥエイン“ザ・ロック”ジョンソン)からインターコンチネンタル王座を奪い(1997年4月28日=ネブラスカ州オマハ)、同年の“サマースラム”でストーンコールドに敗れ同王座を明け渡した(同年8月3日=ニュージャージー州イーストラザフォード)。
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再びブルー・ブレーザーへの変身を命じられた
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