ケン・シャムロック シャムロックのあしたはどっちだ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第93話>
“スポーツ根性ドラマ”の主人公のような人生といっていいかもしれない。
ケン・シャムロックというプロレスラー、あるいはプロ格闘家の生きざまを追っていくと、観客のまえで闘うことを生きる糧としている男のハートの内側のようなものがみえてくる。
複雑な家庭環境で育ち、10歳で家出少年になったシャムロックは、少年時代にファイターとしての本能にめざめたのだという。
14歳のときにカリフォルニアの養護施設“シャムロック・ランチ”で生活するようになり、ハイスクール時代はフットボールとアマチュア・レスリングに打ち込んだ。
運動能力と体格をいかせる仕事として、シャムロックにプロレスを勧めたのは養父ボブ・シャムロックだった。
1988年、シャムロックはサクラメントの“バズ・ソイヤー・レスリング・スクール”で基礎トレーニングを受けたあと、サウスカロライナの合宿スタイルの“ネルソン・ロイヤル道場”でレスリングの練習をつづけ、同年、ビンス・トレーリーのリングネームで24歳でプロレスラーになった。
フロリダのインディー団体で試合をしていたシャムロックを発掘し、「この選手は日本向き」として第2次UWFのリングに送り込んだのは、当時、タンパの“マレンコ道場”で師範をしていたディーン・マレンコ(現WWEプロデューサー)だった。
1990年、ウェイン・シャムロックのリングネームでUWFのレギュラー外国人選手となったシャムロックは、UWFが3派に分裂するとプロフェッショナル・レスリング藤原組に移籍(1991年)。
1993年、船木誠勝、鈴木みのるらが藤原組を退団して新団体パンクラスを設立すると、シャムロックもこの発足メンバーに加わった。シャムロックのなかでプロ格闘家としての自我が確立されたのはこのころだった。
パンクラスのリングでシャムロックは山田学を下して初代キング・オブ・パンクラシスト王者となり(1994年12月)、これと同時進行でアメリカ国内ではUFCの――MMA(ミックスト・マーシャルアーツ)という単語が発明される以前の――“ノー・ルール・ファイト(なんでもあり)”に傾倒していった。
シャムロックの“スポ根ドラマ”は、WWEとの3年契約という意外な展開を迎えた(1997年2月)。みずからが交渉役となってスカウトに動き、シャムロックをプロレスのリングにひきずり込んだのはブレット・ハートだった。
シャムロックはWWEのリングではドロップキックもロープワークをこなし、連続ドラマ“月曜ロウ”のなかではビンス・マクマホン派閥“コーポレーション”のメンバーを演じた。
2000年2月にWWEとの契約が切れると、シャムロックはこんどは日本でPRIDEのリングに登場してプロ格闘家として試合をおこない、アメリカではプロレスラーとしてインディー団体をハシゴして歩くようになった。
新団体TNAのTVマッチではシャムロック対サブゥーの“ラダー・マッチ”という信じられないような異次元対決も実現した(2002年7月24日=テネシー州ナッシュビル)。
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