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<水島新司先生追悼> ‘70年代のちびっ子は『ドカベン』から全てを学んだ

明訓が負けたあの日

 前後してしまうが、忘れもしない衝撃的な展開はやはり高校2年の夏に常勝明訓高校が弁慶高校に負けたときだ。この展開が『週刊少年チャンピオン』に掲載された日の新聞広告には「ドカベン今日散る!」とデカデカと掲載。それを見た小学校4年生の筆者らは「あぁ〜明訓負けたんだ……!」と落胆したけれども、むしろ雑誌を読む前に試合の結果がわかってしまったことに驚いたものだ。  高校2年の夏の神奈川県大会から、明訓を破るのはどこかという空気がずっと流れていた。  エース・義経光と主砲・武蔵坊数馬が率いる弁慶高校は岩手県代表であり、県下一の進学校である古豪・盛岡第一がモデルとされている。蛮カラで有名な盛岡第一は羽織袴で歩いて甲子園に行ったという逸話が残っているほどだ。弁慶高校も山伏の格好で岩手から徒歩で甲子園を目指し、その道中で修行のため全国各地に散り散りになっていたレギュラー選手がひとりふたりと合流し、甲子園に辿り着くといった設定だった。これが当時のちびっ子たちには大ウケでよく真似した。学校の帰り道に先回りした友達が道端に座っており、わき目も振らずに歩きながら「◯◯!」とその名を呼ぶと、座っていた友達が黙って立ち上がって後ろを付いていくという“弁慶高校ごっこ”をよくやった。終いには、「俺たちも歩いて甲子園にいこうぜ」となり、甲子園がどこにあるのか判らず、ただ単に西の方へと歩き出し、市を跨いだところで警官に補導された。

社会のルールも教えてくれた

 また、筆者は『ドカベン』で社会のルールも知った。高校2年春のセンバツ甲子園大会、横浜学院の谷津五郎がエース土門剛介の命令により、ストーカーまがいのように山田太郎に張り付く。すべては山田攻略のためであり、甲子園期間中も自費で明訓の宿舎と同じ芦屋旅館で泊まり込む。このとき披露してくれた山田の練習方法は、少年野球のみならず人生においても大いに役立った。  山田はまず梅田行きの阪神電車の急行に乗り、蹲踞(そんきょ)して頭を動かさない姿勢のまま猛スピードで駆け抜ける各駅停車駅の看板を見て読み当てるのだ。動体視力を鍛える訓練だ。もちろん、小学校3年生の僕らも取り入れた。みんなで快速電車に乗り、ドア付近に蹲踞の姿勢のまま駅名を当てようとするのだが、まず電車の揺れで蹲踞が上手くできない。皆がすってんころりんと転がっていると、車掌に「こら何やってるの? きちんと座るか立つかどっちかにしなさい」と怒られる。「訓練です!」と言い返すと、「訓練よりも人の迷惑を考えなさい」と言われ、「ごめんなさい」と謝ったのを覚えている。社会では人様の迷惑になることをしたら怒られるのだ。  谷津五郎が山田の一挙手一投足に驚き、山田メモに記していく過程がまた面白かった。メモするときの始まりが、“前略、土門さん”。ちょうどその頃、日テレでショーケンこと萩原健一主演の『前略おふくろ様』が放映されていたが、小学生の筆者たちにとっては、前略といえば土門さん、だった。
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ドカベン史上最高の試合とは……
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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