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喉が乾いて仕方ない時、水とエロ本どっちを取るか。僕に気づきをくれた男子中学生

【おっさんは二度死ぬ 2ndシーズン】

僕に気づきをもたらした、小学校の国語教科書の作品

 これはレモンのにおいですか。  そんな一文から始まる文章を今でも覚えている。小学校時代の国語の教科書に載っていた「白いぼうし(あまんきみこ著)」という短編における冒頭のセリフだ。運転手の松井さんのタクシー車内に強く漂う柑橘類の香りは、レモンではなく夏みかんだった。松井さんの田舎から送ってきたもので、嬉しくなって車内にもってきたのだ。  松井さんは客を降ろしたあとに、道端に白い帽子が落ちていることに気が付く。風で飛んでしまったら大変と拾い上げると、中から蝶が逃げ出した。帽子は落ちていたのではなく、どこかの子供が蝶を捕まえ、逃げないように閉じ込めていたのだ。おそらく応急的な措置であり、この後に虫かごや虫網を持った子供が駆けつけるのだろう。  せっかくの蝶を逃がしてしまって申し訳ないことをした。松井さんはいたたまれない気持ちになった。せめてもの償いにと松井さんは車内を爽やかな香りで満たしていた夏みかんをそっと帽子の中に入れたのだった。  松井さんはほくそ笑む。虫かごを持った子供が帽子を持ち上げて目を丸くして驚くぞ。  この短編は、そんな松井さんの人の好さとお茶目な優しさが爽やかな清涼感を与えてくれ、その清涼感を夏みかんの香りがギュッと引き締めるような名作なのだ。  そして、この後に迎える少し不思議な展開が、子供だった僕の心に強烈に印象を残している。それは別視点の導入と言ってもいいだろう。つまり、松井さんにとってはせっかく捕まえた蝶を逃がしてしまったという失態なわけだけど、蝶の視点から見ると助けてもらった大恩人であると気づかせてくれる展開が待っている。詳しくは是非とも本作品を読んでいただきたい。  視点が変わればその価値も大きく変わる。  同じ行動であっても、見る人が違えば大失態である一方、大恩人でもある。失敗でもあるし成功でもある。それはなんだかこの世の真理に近いような、そんなことが幼心に強烈に刻まれたのだった。

移動費がバカにならない。合併を繰り返し巨大化した市内

 以前にこんなことがあった。もう何年も前の話だ。  仕事の都合で地方都市に行った時のことだった。どうやら隣の市に古くからの友人が住んでいるらしく、それじゃあ久々に飲みましょうとなってホテルをとった市の、隣の市まで列車で出向いて飲みに行った。  古い友人と古い思い出話に花が咲く。気が付くとあっという間に最終列車の時間を過ぎていた。地方都市の夜は短い。予想したよりも1時間くらい早く終わっていた。これは僕の悪い癖なのだけど、楽しく酒を飲むと一気に帰りに関する知見がゼロになるのだ。  まあ、隣の市だし、タクシーで帰ればいいよと僕が告げると、友人はマジかという驚きの表情を見せた。なんでも、隣の市といってもけっこう尋常じゃないくらいに距離が離れているらしい。そういえば来るときもけっこう長いこと列車に乗っていたような気がする。  平成の大合併以降、地方自治体の巨大化が進んでいる。特に「市」という括りは合併に合併を繰り返し、とんでもない広さを持っていることがある。その市はまさにそれだった。市ではなく死である。タクシーでは天文学的な料金がかかると言われた。 「なあに、こう見えてもけっこう稼いでんだ。タクシー代くらい屁でもないよ」  友人の手前、強がって見せたけど高額のタクシー代は痛い。僕は貧乏性なので、とくにタクシー代はメーターが上がるたびに心臓を削られる思いがする。できれば避けたいものだ。仕方ないので、笑顔で友人と別れた後、歩いて帰ることにした。ある程度は歩いて帰って、近くなったらタクシーに乗る。それで朝までにはホテルに帰ることができるだろう。もはや何のためにホテルをとったのかすら分からない状況だ。  歩き出してすぐに、まず繁華街が姿を消し、そして次に住宅街が姿を消した。すぐに田園風景も姿を消して、森を切り裂くアスファルト道路だけの風景が延々と続いた。どうやら峠越えみたいなものが必要らしい。とっくに目指すべき市の領域に入っているはずなのに風景はずっと山の中だった。  真っ暗な上り坂をトボトボと歩く。道に迷ったら死に直結するのでスマホの地図を何度も確認しながら歩くけれども、そろそろ充電の残量が心許なくなってきた。
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真っ暗闇の山中で見つけた、野菜の無人販売所
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テキストサイト管理人。初代管理サイト「Numeri」で発表した悪質業者や援助交際女子高生と対峙する「対決シリーズ」が話題となり、以降さまざまな媒体に寄稿。発表する記事のほとんどで伝説的バズを生み出す。本連載と同名の処女作「おっさんは二度死ぬ」(扶桑社刊)が発売中。3月28日に、自身の文章術を綴った「文章で伝えるときにいちばん大切なものは、感情である 読みたくなる文章の書き方29の掟(アスコム)」が発売。twitter(@pato_numeri

pato「おっさんは二度死ぬ」

“全てのおっさんは、いつか二度死ぬ。それは避けようのないことだ"――


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