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小学生男子の性を目覚めさせた「縦笛」。中年になっても色褪せないその思い出

【おっさんは二度死ぬ 2nd season】

Road of the TATEBUE縦笛物語

 空港のラウンジでコーヒーを飲んでいたところ、こんな話が聞こえてきた。 「遠足がなくなってくれて本当によかった」  女性はすっきりとした笑顔でそう言ってコーヒーカップを口に運んだ。 「よかったんですか? お子さんは残念がっているんじゃ?」  向かい側に座っていた女性が少しだけ身を乗り出して尋ねる。マダムは少し食い気味に首を横に振った。 「うちの子はね、お弁当の時間が嫌だったの」  どうやらマダムの子どもは遠足の時に一緒にお弁当を食べる友達がおらず、一人で食べることを嫌がっていたようだ。  先生などが気を使って一緒に食べようとする措置もあまり好きではなかったようだ。それがコロナ禍で遠足などが中止になり、たとえ実施されたりしても黙食が掲げられ、友達同士で固まらず間隔を開けて食べるようにするなど、友達を誘って食べることがなくなったようなのだ。だから良かったというのだ。  僕はその話を聞きながら自分でも心当たりがある気がした。どうして幼き日の僕はあんなにも一人で弁当を食べることを怖がっていたのか。どうしてあんなにも真剣に悩んでいたのか。それは強迫観念に近いものだったのかもしれない。  いま、一人でご飯を食べるのが怖いなんて悩みはどこにも存在しない。むしろ、昼休みはオフィスのメンバー全員でランチ、みたいな流れになったら勘弁してくれとなる。おっさんの仕事上の武勇伝を聞きながら昼飯を食べたいやつなんていない。昼飯くらい一人で好きに食わせろよと思うほどだ。なのに、幼き日の僕は遠足で一人弁当なんて、この世の不幸を一身に背負った存在と思い込んでいた節があるのだ。

思い出の縦笛事件

 幼少時代の悩みなんて、往々にして今にして思うとどうでもいいことなのだ。もちろん、それは今だからそう思えるのであって、当時の心中としては深刻なものだし、バカにしていいものではない。ただ、やはり、どうしても少しだけバカにしてしまうのだ。 「五十嵐さんの縦笛……」  ふと、そんなことを思い出した。少しクリームがかったコーヒーの色があの日の縦笛の色と重なった。  小学生の頃だった。五十嵐さんの縦笛がなくなるという事件があった。五十嵐さんは清楚な感じの女の子で、いつもフリフリの服を着ているようなお嬢様タイプ、クリクリした瞳が印象的で人気のある子だった。たぶん、彼女のことを好きな男子も多かったと思う。  そんな状況の中で、五十嵐さんの縦笛がなくなった。  小学生にとって、なにかに直接的に口をつけるという行為は非常にナーバスであったし、神聖なものであった。口をつけるしかない楽器であるところの縦笛は性の象徴みたいなところがあった。その性の象徴たる縦笛がなくなったのだ。それも五十嵐さんの性がなくなったのだ。  誰もが、五十嵐さんとの間接キスを狙った大胆な犯行だと確信した。五十嵐さんは泣き、女子どもは結束して気持ち悪いと男子どもを叩いた。男子も男子で、俺が盗んだわけじゃねえよと応戦の構えを見せた。 「とんでもないやつがいるもんだねえ。間接キスしたいなら放課後にこっそり舐めればいいのに盗むなんて」  そんな男女の争いを傍目で見ながら吉岡はそう言った。サラッと大胆なことを言っていることに本人は気づいていない。 「ほんと、とんでもないやつがいるもんだ」  僕はそう言いながら、教室の後ろにあった道具箱に手をかける。これは各個人に配布された厚手の紙製の箱でロッカーの上の棚にすっぽりおさまるようにできている。ここに三角定規だとかコンパスを入れるようになっていた。 「だいたい、間接キスの何が楽しいんだ」    そんなことを言いつつ道具箱を開けたのだ。  縦笛があった。
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それは一体、誰の縦笛なのか
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テキストサイト管理人。初代管理サイト「Numeri」で発表した悪質業者や援助交際女子高生と対峙する「対決シリーズ」が話題となり、以降さまざまな媒体に寄稿。発表する記事のほとんどで伝説的バズを生み出す。本連載と同名の処女作「おっさんは二度死ぬ」(扶桑社刊)が発売中。3月28日に、自身の文章術を綴った「文章で伝えるときにいちばん大切なものは、感情である 読みたくなる文章の書き方29の掟(アスコム)」が発売。twitter(@pato_numeri

pato「おっさんは二度死ぬ」

“全てのおっさんは、いつか二度死ぬ。それは避けようのないことだ"――


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