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広岡達朗は川上哲治に兄を重ね…確執の先にあった“ある想い”

 門田博光、田尾安志、広岡達朗、谷沢健一、江夏豊……昭和のプロ野球で活躍したレジェンドたちの“生き様”にフォーカスを当てた書籍『確執と信念 スジを通した男たち』。  大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは? プロ野球界に飛び込んで68年、御年90歳を迎えたレジェンドである広岡達朗が今明かす”信念”の行方とは――(以下、同書より一部編集の上抜粋)。

「川上哲治から虐げられ続けた」

「カワさん(川上哲治)には、入団から引退までずっと虐げられ続けた。もし水原(茂)さんがずっと監督を務めていたら、何度も3割を打ってるよ」  冗談めかして話す広岡だが、内心本気ではないかと感じさせるほど巨人時代に壮絶な軋轢を生んでいる。広岡と川上の確執の要因は、野球観の相違というより人間性が相容れなかったように思える。  広岡が早稲田から入団した頃の巨人軍はリーグ三連覇中で、名将と謳われる水原茂監督のもと、チームの大黒柱としてプロ入り14年目の四番打者・川上哲治が君臨していた。 「一番上の兄貴と川上さんが同じ年なんだ」  広岡が川上について初めて語るときに発した言葉だ。 12歳離れた長兄の進に大層可愛がられた広岡達朗。進は英語が堪能で、軍人の父誠一も「捕虜になってくれればアメリカは通訳として使うだろう」と送り出したが、戦地で亡くなってしまった。

決裂のきっかけ

 兄弟の中でも一番大好きだった長兄の進と偶然にも同じ年の川上に、何かしらの縁を感じた。一回り上の兄の包み込むような優しさを肌で覚えていた広岡は、川上への距離感を勝手に縮め、憧憬を抱くようになったのも不思議ではない。 「カワさんはファーストの守備が本当に下手だった。『俺はこの辺りしか捕らないからな』と言って、自分の胸のあたりに弧を描く。練習中ならまだしも試合でもその範囲に来た送球しか捕らないんだから。  決定的に決裂した日のことは今でもよく覚えているよ。’54年4月二七日の西京極球場での洋松ロビンス(現DeNA)戦で、八対四で勝っていて九回裏を迎えたときのことだった。ピッチャーはベテランの中尾(碩志、通算209勝)さん。俺が一塁に悪送球したんだ。悪送球っていっても大暴投じゃなくて、ちょっとジャンプすれば捕れる球。だけど、カワさんは捕らない。結局、その次のプレーでもカワさんが捕れる範囲に送球できなくて、1点追加された。そして青さん(青田昇)に逆転満塁ホームランを打たれてサヨナラ負け……。  当時は、自分のエラーのせいで負けたから監督や先輩たちに頭を下げても素通り。今だったら、エラーした選手に声をかけないほうが悪いとなるけどね。とにかくゲームが終わってひとりでいると馴染みの記者が来て『えらいことしたね〜』と声をかけられるから『申し訳ないことをしてしまった……』と答えてうなだれていた。これでやめておけばよかったんだが……つい『ファーストが下手クソじゃけ、あれくらい捕ってくれにゃあ野球はできんけぇのぉ』と広島弁で言ってしまった。それが翌日の新聞にデカデカと載って……潮目が明確に変わったのはそこから」  この〝神様批判〟とも取れる発言が新聞に取り沙汰されたことで、巨人軍に不穏な空気がまん延し始める。広岡は正論を言ったまでだが、世の中はそう単純ではない。当時、日本プロ野球史上初の1500本安打を達成し〝打撃の神様〟と呼ばれた川上哲治を一介の新人が痛烈に批判したのだから、大きなハレーションが起こるのも当然である。
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川上哲治の鬼気迫る打撃に……
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