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千葉の実家に7年間ひきこもった30歳男性がルーマニアで小説家に…“異世界転生”の一部始終

日本を舞台とするルーマニアの小説(左)と、代表的なルーマニア文学「ノスタルジア」(右)に持つ済東さん

日本を舞台とするルーマニアの小説(左)と、代表的なルーマニア文学『ノスタルジア』(右)を手に持つ済東さん

 千葉の実家に7年間ひきこもりながら、ルーマニアでは新進気鋭の小説家として注目されている男がいる。済東鉄腸(さいとう・てっちょう)さん、30歳。現地では「ルーマニア語で書く日本人作家」として注目されていて、現地メディアで何度も取り上げられる存在となっている。  しかし済東さんは長年鬱をわずらい、数年前からは遠出も制限される難病「クローン病」になってしまった。千葉はもとより、自分の家からもほとんど出ない生活をしている。まるで「なろう系ノベル」のように、絶望的な日本での生活から“異世界”ルーマニアで作家として転生したかのようだ。いったいどのようにして、彼はルーマニア語の小説家となったのだろうか。

ルーマニア語を覚えるため、SNSで4000人のルーマニア人と交流

クローン病のため、2年で体重は40kg近くも減った。「せめて外出する時は好きなものを食べたい」という

クローン病のため、2年で体重は4kg近くも減った。「せめて外出する時は好きなものを食べたい」という

 済東さんは子どもの頃から、緘黙(かんもく)に近いほどの人見知り。大学に入学すると、サークルでの失恋がきっかけで鬱になった。済東さんいわく、大学時代は「暗黒の4年間」だった。通学するのもやっとで、友達との交流もほぼなかったという。しかし唯一好きだった映画鑑賞だけは自室や大学の視聴覚室で続けていた。  2015年に大学を卒業した後は鬱のために就活もできず、そのまま千葉の実家でひきこもりに。それでも国内外の映画を配信等で観続け、ブログに批評を書き続けた。また、もう一つの趣味である短編小説も書き続けていた。唯一の外界との接点は、週一回、映画館で観終わった人に感想アンケートを取るアルバイトだった。それは「自分を社会に繋ぎとめる、ギリギリの手段」だったと言う。  そんなある日、初めてルーマニア映画を観て衝撃を受けた。済東さんは「日本や他の国の商業映画にはない徹底したリアリズムや、禅的な時間の感覚が表現されている」と、鮮烈な印象を受けたという。これを機に、ルーマニア映画を次々と観始めた。それらの映画は日本では公開されてないものがほとんどで、英語字幕すらついていないものも多かった。 「もっとルーマニア映画を理解したい。ルーマニア語を学びたい」  そう思った済東さんだが、日本ではルーマニア語教材が普及しておらず、ほぼ独学に頼るしかなかった。「言語を学ぶには、その国の人たちと話すのがよいのではないか」。コミュニケーションは苦手だったが、ルーマニア映画への思いが済東さんを後押しした。  ひきこもっていてもコミュニケーションを取れるのがネット社会の利点だ。ルーマニア人ではフェイスブックが盛んなことを知った済東さんは意を決し、映画や文学に関心のありそうなルーマニア人に一日数十人、計4000もの人にフレンド申請を行ったのだ。すると「ルーマニア語を話す日本人なんて、面白そうじゃないか」とも思われたのか、次々とフレンドができていった。  コミュニケーションが苦手で「人前で話すのもまったくダメ」という済東さんだったが、「ネット上でなら話せる」ということを発見した。最初は主に、メッセージのやりとりだ。「相手からこんな言葉が来たら、どうやって返せばいいかな」ルーマニア語の文章を片手に、文章を作るのと同時にコミュニケーションの基礎も覚えていったという。  相手も日本人の済東さん相手に、ゆっくりと対応してくれたそうだ。「以前は相手のことを聞くなどの配慮ができなかった。でも文字でのコミュニケーションで、相手がやさしく待ってくれたことで、相手の話を聞くことができるようになった」とも話す。  さらに村上春樹などの日本人作家の批評や、書き溜めていた「日本の見えない差別や暗部」等を描いた短編小説をルーマニア語で投稿していくと、文芸愛好家のフレンドが増えていった。

日本にいながら、ネットを通じてルーマニア語の小説家としてデビュー

済東さんイメージ「異世界転生もの」の小説やマンガでは、ネットゲームの中へ生まれ変わるものも多いが、済東さんはルーマニアという“異世界”へ日本にいながらにして転生したようだ。  フレンドの中には、日本への留学経験を持ち、日本を題材にした小説を書いたルーマニア人女性作家もいた。彼女に思い切ってメッセージを出すと意気投合。数か月後には別件で来日した彼女と東京で蕎麦を食べ、書店やレンタルビデオ店に行き、映画や小説について語り明かした。  済東さんは「彼女はルーマニア文学における“母ちゃん”。会った時のことは、今も忘れられない。自然にテンションが上がり、どんどん言葉が出てきた。これがコミュニケーションなのかなと。人見知りを脱却するのも悪くないな」と振り返る。  ある日、ルーマニアの文芸誌の編集長がメッセージを送ってきた。「君の作品に興味がある、良かったらうちに載せてみないか」。済東さんがルーマニア語作家となった第一歩だった。2019年4月のことだった。 「はじめてルーマニアのサイトに作品が載った時、自分のやってきたことに間違いはなかったんだなと思えた。ひきこもってずっと映画を観て、小説を書いてきたけど、ルーマニア人が認めてくれた」と、過去の全部が肯定されたような気がしたと済東さんは言う。  それからは、文芸メディアにルーマニア語で連作小説や、日本批評を載せている。「どんどん、フェイスブックは俺の人生を変えてくれた」と言う済東さん。この小説家デビューの成功体験から、憧れていたルーマニアの映画作家たちに「ダメ元で」メッセージを送ると、インタビューすることもできた。済東さんのライフワークである映画批評にも、より厚みが加わった。  済東さんは「自分は話すのが好きだったんだなと気づけた」と笑う。
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ルーマニア冒険で出会った仲間たち
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