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元ギャルサー総代表の“その後”。突然の“子宮頸がん”宣告をギャルマインドで乗り越えるまで

当時の夢は“スーパーフリーター”

山城奈々 そしてさらなる転機が。地元の先輩からこれから新しくできるというギャルサーに勧誘されたのだ。有名ギャルサーの妹分サークルということで、山城さんも乗り気になり「やるやる!」と即答で加入を決めた。  モデルとして、というよりも、“ギャル”として、有名になりたかったという。ギャルブームの中で、顔と名前を少しでも覚えてもらうために、メイクはあえて薄くして色味や服装で個性を出していたのだとか。ブルー、ホワイト、ピンク……などテーマカラーを決めたコーディネートにしていた。憧れはパリス・ヒルトンとバービーだ。  高身長のスタイルに、個性的なファッション。山城さんは渋谷でも目立っていたようで、念願だったギャル雑誌『egg』のストリートスナップにも出演。山城流ファッションは瞬く間に話題となり、「前略プロフ(前略プロフィール)」やブログのアクセス数も急上昇し、ギャルとしての知名度はどんどん上がっていった。  そんな山城さんの当時の夢は“スーパーフリーター”。 「会社員に向かないなって思ってたんです。中学生の頃なんて三者面談で将来について聞かれたら、え〜〜スーパーフリーター?とか答えてたんですよ。今思えば、個人事業主!?って感じですけど(笑)。母親からは『やだあ〜やめてよ〜』って言われてましたし、先生も『はあ……』って呆れてましたね」  それでも山城さんはかなり本気だった。実際にその後、山城さんは大きな飛躍を遂げていく。

ギャルを卒業して芸能界へ

  山城奈々 ギャルサーの先輩たちは、山城さんの活躍に目をつけ二代目代表に指名、さらに知人からは、プロデュース業を営む会社を運営しないかと話を持ちかけられていたという。ギャルとして有名になりたい彼女はどちらも承諾。忙しい日々が始まった。  ギャルサーのイベント運営、商品企画、メディアの密着取材、雑誌の撮影、番組出演……学業に回せる時間はほとんどない。埼玉のとある高校に通っていたが、仕事を優先して定時制の学校へと転校することにした。とにかくギャル業が楽しかったのだ。  ギャルとして活躍していた山城さんだが、高校卒業とともにギャルファッションはきっぱりやめた。「ギャルは18歳まで」とはじめから決めていたのだとか。  その後、タレントとなりしばらく活動するが、19歳で芸能界を引退。華やかな世界の裏側には想像以上の過酷さがあった。 「番組はいくつか決まってたんですけどギャルの格好をやめたら流れちゃいましたね。そのあと知人の紹介でタレント事務所に所属したんですけど、当時の芸能界は辛いことが多くてメンタルが病んじゃって。さすがにそんなことできないなと思うこともあったんですよ。それで1年ちょっとで辞めちゃいました」  それからしばらくは芸能界から離れた。その間は数年ほど仕事をしながら貯金し、その資金でグラフィックデザインの専門学校に入学した。そこで学んだ知識を活かし、グラフィックデザイナーとしても活動するようになる。  気がつけば芸能界引退から8年が経っていた。20代後半となった山城さんはこれからの人生について考えていた。  これからどう生きていこうか、やり残したことはないか……考えた末にもう一度モデルになりたいと思ったという。  その頃にはモード系ファッションを好むようになっていた山城さん。それならランウェイを歩くモデルになってみようと考えた。思い立ったらすぐに行動。するととんとん拍子でランウェイの出演が決まっていく。  Mame Kurogouchi、Maison MIHARA YASUHIROなどの有名ブランドのファッションショーにも出演。再びモデルとしての夢を叶えていく山城さん。  まさに順風満帆な生活。しかし、悲劇は突然訪れた。
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突然のがん宣告
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1994年生まれ。リアルサウンド編集部に所属後、現在はフリーライターに。『リアルサウンド』『日刊サイゾー』などで執筆。またnoteでは、クォーターライフクライシスの渦中にいる20代の声を集めたインタビューサイト『小さな生活の声』を運営している。

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