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三浦大知「半分余っています」チケットの“売れ残り”告白が話題に。“ちょっと興味あるから行こうかな”ができない二つの要因

“ちょっと興味あるから行ってみよう”が生まれにくい状況

 そして、ライブ観賞がこのように大きな支出を強いる贅沢な娯楽となったことは、アーティストとファンの距離を近いものにしました。なぜなら、他に多くのアミューズメントがある中で、特定のアーティストの高額なライブに金銭を費やしてくれる期待が持てるのは、他ならぬファンだからです。だから、三浦大知も直接彼らに呼びかけたのでしょう。  しかしながら、アーティストとファンのみで完結する商業圏では、どうしてもパイが限られます。何があっても三浦大知のライブには駆けつけるという岩盤支持層はあっても、それは極端に減らないかわりに、急激に増えもしない。  そこで、その隙間を埋めるのが、“ちょっと興味あるから行ってみよう”ぐらいのお客さんの存在なのですが、残念ながら昨今の音楽シーンでは、この豊かな無党派層たる「客」が生まれにくい状況にあります。  チャンネルやプラットフォームの多様化が個人の趣味の細分化に転じるので、ゆるく誰もが知っているヒット曲が流通しにくくなります。その中でマネタイズするには、アーティストがどれだけファン(=常連)を囲い込めるかが勝負になってくる。  けれども、皮肉なことにこうして囲い込めば囲い込むほどにサークルとしての結束は固まる一方、閉鎖性も帯びてくる。良い意味でフラットな他者としての客が入り込む余地がなくなっていくのですね。だから、三浦大知という名前はぼんやり知っていても、彼のヒット曲や動向が熱心なファン以外には伝わってこない。  現在の価格設定で1万人規模の会場を埋めるには、「客」の力が必要なのに、音楽のビジネスモデル自体に「客」を生み出しにくい構造的な欠陥がある。  三浦大知の呼びかけには、そのジレンマがあるのです。

逆転する「アーティストとファンの立場」

 最後に、価格は上昇しましたが、むしろ音楽自体が贅沢品ではなくなったのではないか、という可能性について考えます。  三浦大知は、ファンが見ているインスタライブで「買ってくれ」と直々に訴えました。これは率直な行動であると同時に、アーティストとファンの立場が逆転してしまったとは言えないでしょうか?  本来、贅沢さ(Luxury)とは、不在の感覚(A sense of absence)のことをいいます。手が届かない存在に、人は魅力を感じるのですね。 音楽で言うならば、ファンがアーティストを欲しがる構図が健全だということになります。けれども、窮状を訴えるアーティストは、自らこの関係を逆転させてしまっている。アーティストがファンを求めているからです。  音楽は食料品などの必需品とはちがって、あってもなくてもいいものです。だからこそ、“買ってください”と頼み込んで売るものではありません。もちろん、昔スマッシュヒットを飛ばしたミュージシャンが地方営業でCDを手売りするとか、加山雄三が借金返済のために昼夜を問わずディナーショーをやるとかの話はあります。けれども、それは背に腹は代えられない状況に追い込まれたからこそ生まれる泥臭いプライドであり、SNSでの告知とは次元の違う問題です。  つまり、厳しい言い方をするならば、今回三浦大知は自らのブランド価値を下げる行動をしてしまったことになります。目下の経済状況や、自身を支えるスタッフへの配慮など、考慮すべき点は多々あります。  それでも、常に憧れられる存在として、“武士は食わねど高楊枝”的な泰然とした振る舞いを、アーティストには求めたい。  こんなことを言うと、時代錯誤と言われてしまうのでしょうか? 文/石黒隆之
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インスタライブでの“告白”が話題に
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音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4

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