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伊良部秀輝の“遺言”「日本に帰りたいです。英語も話せないし」

― 伊良部秀輝の“遺言” 【後編】 ―

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――ヤンキース、エクスポズ、レンジャーズ、そして阪神タイガースの一員として日本に戻りました。星野監督から声を掛けられたんですよね?

伊良部  その前の年、エコノミー症候群でリタイアして、半年間リハビリが必要だったんです。それなのによく呼んでくれたなぁと。

――星野さんと面識は?

伊良部  なかったです。

――阪神ファンだったんですか?

伊良部  育ったのが尼崎だったんでね、周りがそういう環境ですから。あの歌、「六甲おろし」もまた盛り上がるような歌じゃないですか。

――帰国して戸惑いはありました?

伊良部  なんでこんなにボールが飛ぶんかなと。今年からはだいぶましになったんですか? 当時はすごかったですよ。打球が速くなるんです。ショートゴロを打たせたはずやのに、なんで三遊間抜けるのって。


――阪神では、03年に13勝を挙げて、チームはリーグ優勝。そして05年に引退します。その後の活動については日本ではあまり知られていません。アメリカでうどん屋を経営していたんですよね?

伊良部  阪神のときは、家族をアメリカに置いて、単身赴任だったんですよ。引退後、こちら(ロサンゼルス)に戻ってきた。高校の同級生から、近くにおいしいうどん屋がないので一緒にやらないかと誘われたんです。ぼくは高校(尽誠学園)のとき、香川でおいしいうどんを食べているじゃないですか。それだったらいけるんじゃないかと。

――立ち上げはいつですか?

伊良部  05年の9月。そして07年に土地のリース契約が切れたので、そこで閉めました。

――その後、09年に独立リーグの選手として現役復帰しました。しかし、昨年2度目の引退。原因は?

伊良部  腱鞘炎です。手首を壊しました。原因はスライダーです。スライダーを投げなくてよかったんですね。昔から投げていたら、もっと早く壊れていたかもしれない。今も手首が痛むんです。朝起きて、布団をめくるだけでも痛いときがある。

◆監督の器ではないことはわかっています

――最近は何をされてますか?

伊良部  何もしてませんよ。近所の子供に野球を教えるぐらい。あとはたまに、草野球に顔を出してます。

――コーチや監督をやる気は?

伊良部  監督の器ではないことはわかっています。コーチ? 日本で雇ってくれるところがあるかなぁ(苦笑い)。三軍のピッチングコーチならばできるかな。

――三軍のピッチングコーチ?

伊良部  二軍でも投げさせて貰えないピッチャーとか、3年も4年も二軍を教えるコーチ。一軍で調子を崩したピッチャーの面倒を見たり。メジャーでは巡回コーチと呼んでいて、ぼくもお世話になりました。

――ヤンキース時代ですか?

伊良部  そうです。なぜそういうコーチが必要かというと、下手したらピッチングコーチって、2年おきぐらいに代わってしまうんです。前のコーチはこう言うていたのに、新しいコーチは全然違うことを教えると、パニクっちゃうんです。選手一人に対して教えるコーチが何人もいたら、良い結果は生み出さない。この選手はこのコーチに任せると決めて、長期間教えさせたほうがいい。

――日本にはそうしたコーチはいないですね。

伊良部  ブルペンの横でコーヒーでも飲みながら、和やかな雰囲気で選手と話をして、みたいな感じがいいですね。迷っている選手とじっくり話をして、何に迷っているのか、ぼくが知っている範囲で答えたい。それでそのプレーヤーがよくなれば嬉しいですね。

――また、現役に復帰する気はないんですか? 手首を治せばまだ投げられるんじゃないですか?

伊良部  フフフ、もう無理です。お腹いっぱい(笑)。

――このまま日本に戻らず、アメリカに永住する予定ですか?

伊良部  家族がこちらの生活がいいと言っているんで。ぼくとしては日本に帰りたいです。英語も話せないし。もし話せたとしても日本がいいですね。日本が好きですから、テレビ番組も面白いし、四季もあるし。

――どんな番組が好きなんですか?

伊良部  バラエティです。松本人志さんとか面白いじゃないですか?


【伊良部秀輝】
69年、沖縄県生まれ。その後、兵庫県尼崎市で育つ。高校時代に甲子園に2度出場。87年ロッテオリオンズにドラフト1位で入団。98年アジア人メジャーリーガーとして、初のチャンピオンリングを獲得。2010年、高知ファイティングドッグスを最後に引退

取材・文/田崎健太

伊良部最後のロングインタビュー2

週刊SPA! 7/19号(2011年)「エッジな人々」より




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