パチンコ店の“サクラ”で月20万円稼いだ53歳。「あれ、おかしくねぇ?」客の一言が破滅の序章に…
朝から晩までパチンコやパチスロを打ち、勝ち金で生活をするパチプロ。20代ならまだしも、30代、40代となるにつれ、世間の風当たりの強さに足を洗う者も多い。気ままな稼業の代名詞とも言われる彼らは、一体どんな人生を歩んでいるのだろうか。
「パチスロで食っていたという意味なら“パチプロ”なんだろうけど、言ってみりゃやってたのは“サクラ”。今でいう打ち子。それもごく短期間だったからね……」
苦笑いしながら話し始めたのは、村木隆弘さん(仮名・53歳)だ。村木さんの人生はまさに流転だ。九州地方の高校を中退してブラブラしていたところ、地元の兄貴分的な人物から誘われて始めた仕事は、日掛け金融の使いっぱしりだった。
ちなみに日掛け金融とは、主に飲食店などの日銭商売の店主を相手にした日賦貸金業者のことで、主に九州地方では一時期隆盛を誇った貸金業者だ。日掛け金融の特徴は、返済は一日単位で精算。2000年までは特例で年利109%まで可能だったため、一部では「国が認めたヤミ金」とも呼ばれたこともある。だが、過酷な取り立てで自己破産する者が続出し社会問題。グレーゾーン金利の撤廃とともに特例も廃止され、姿を消した。
「日掛け金融で使いっぱしりやって、その後は福岡で自動車金融で使いっぱしりやって……って、まぁ、人に言えない商売ずっとやってたわな。で、まぁ、いろいろあって、ちょっと地元にいづらくなってきて、東京か大阪にでも行こうか……って思ってたときに、中学時代の同級生でまぁまぁ仲のよかったコが東京にいるって聞いて、転がり込んじゃったんだ(笑)」
こうして2000年に村木さんは上京し、その後、転がり込んだ女性の紹介でバーテンダーとして働き始めたという。
「吉祥寺のほうにあったフツーのバーでバーテンやってたんだけど、2年くらいしたらオーナーから『もう一軒出したいから、店長やってくんないか?』って。それでカウンターだけで8席くらいの小っちゃいバーで雇われ店長をし始めたんだ」
ロン毛を後ろで縛り、どこか昔のキムタクを彷彿とさせる顔立ちの村木さん。そんな村木さんを慕って瞬く間に客は集まり、小さいながらも店は順調に繁盛した。そして、上京したときに転がり込んだ同級生の女性とも結婚。子供も生まれ、まさに順風満帆な時が訪れたのだが……。
「子供が生まれてカネも必要になってきて、店の売り上げに応じてインセンティブももらってたけど、それだけじゃちょっと不安で……。で、ある日、店でみんなでワイワイやってた時に『オレも人の親になっちゃったからさ、もっと稼がなきゃ』みたいな話になった。それで冗談で『昼間はパチスロで勝って、夜はバーテンとかやってたら、最高だよなぁ〜』みたいなことを言ったんだよね」
この一言が村木さんの人生を大きく変えることになるとは、村木さんもこのときは知る由もなかった。
「常連のイトーちゃんってヤツがいて、そいつから電話掛かってきて『マスター、サクラやりませんか?』って。最初はハァ?ってなったけど、とにかく一度話しを聞いてほしいっていうから、その日の開店前にイトーちゃんが来たんだよ。
それで聞いたら、パチンコ屋の店長やってる人が高設定台を用意するからそれを打って、換金したカネを折半してほしいって言うんだ。要するに雇われ店長が小遣い稼ぎのために“抜き”をしたいって。『そんなん絶対怪しいよ』って言ったら、マスターもいろいろとカネ必要なんでしょって……」
高校中退してからパチプロになるまで
常連客から“サクラ”の誘い
グルメ、カルチャー、ギャンブルまで、面白いと思ったらとことん突っ走って取材するフットワークの軽さが売り。業界紙、週刊誌を経て、気がつけば今に至る40代ライター
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