小池百合子都知事vs「東京のムラの掟」(2)――なぜ「ムラの掟」が生まれたのか?

小池政治塾「希望の塾」で講演する小池百合子氏

4期連続当選した石原慎太郎都知事にさかのぼる


 日本の首都・東京にムラの掟ができてしまった要因を探っていくと、平成11年4月に66歳で都知事に就任した石原慎太郎知事にさかのぼる。石原知事は、4期連続当選し、4期目の途中で国政復帰のために辞任したが、13年半にわたり都知事の座に君臨した。

 だが『サンデー毎日』などによれば、石原知事の都庁への出勤は、週3回程度といわれた。作家という二足のわらじをはき執筆活動もあり、また毎日登庁して細かく仕事の指示を出すタイプの政治家ではなかった。それでも都政が回っていたのは、腹心の浜渦武生副知事の活躍によることが大きかった。

 浜渦氏は、石原氏の国会議員時代から秘書を務め、石原氏が都知事となった翌月の平成11年5月に特別秘書、そして翌12年7月から副知事に就任した。

 意に沿わない都庁の幹部を早期に退職させるなど、人事面で強面(こわもて)ぶりを発揮して都庁を掌握し、石原氏の懐刀として縦横無尽の活躍を行った。

 しかし、余りの強面ぶりが都庁職員や都議団の反発を買い、石原知事が2期目の平成17年5月に都議会に百条委員会が設置され、やらせ質問の偽証をとがめられ、同年7月に辞職するに至った。

都庁の権力構造に「空白」が生まれ新たなムラ長の誕生


 この時、都庁の権力構造に「空白」が生まれた。この空白を巧みに埋めたのが内田茂東京都議である。彼は、浜渦副知事を追放するための百条委員会設置時の都議会議長を務め、その功績をもって自民党都連幹事長に就任した。浜渦氏に代わる新たなムラ長の誕生である。

 本来であるならば、選挙で選ばれた都知事がムラ長であるべきところ、登庁週3日の石原知事ではムラ長足りえない。石原知事自らも、都政の重要な案件については、内田茂氏に話を通しておくようにと言い始めるに至った。

 石原知事が4期目の任期途中に国政復帰するため、猪瀬直樹副知事にその後継を託し、平成24年12月、猪瀬氏が都知事に就任した。彼は鼻っ柱が強い人物であり、史上最多の得票数で知事に就任した自負もあり、自分がムラ長であり、旧来のムラの掟を打破すべく行動した。しかし、百戦錬磨の古参の自民党都議団の前にあえなく沈没し、わずか1年で辞職した。

 次の後釜に座ったのが、舛添要一氏である。彼はもともと国際政治学者であり、積極的に都市外交を展開した。都知事をバネに、首相になる野心を抱いていたからだ。しかし、韓国人学校の設置など、日本外交の基軸とは異なる行動が徐々に問題視され、その大名旅行ぶりが批判され、2年4か月の就任期間で自滅した。

 これにより、自民党の古参の都議団の力はますます強くなっていった。

 一方で、自民党の古参都議団たちは、猪瀬、舛添と2代続いて都知事が辞任されるのでは安定を欠くとばかりに、可もなく不可もない地味な増田寛也氏(前岩手県知事)を担いだ。

 しかし、小池百合子という破壊力が凄まじい知事が誕生した。古参の自民党都議団は、当初、お手並み拝見とばかりに、いずれぼろを出すと高を括っていたが、矢継ぎ早に繰り出される二の矢、三の矢を前にして、枕を高くして寝むれない状態が続いている。(続く)

文責=育鵬社編集部M

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