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第6章:振り向けば、ジャンケット(10)

 都関良平(とぜきりょうへい)の口から出かかった次の言葉を、しかし百田(ももた)と紹介された男が、眼で遮った。

 こういう状態は、カジノのVIPフロアでたまに起こる。

 自分のアイデンティティを隠したい者、あるいは周囲に自分の虚偽のアイデンティティを語っている者。場合によっては、当局を含む関係者から追われている者。いろいろなのである。

 でもそんなことは、みんなまとめて全部受け入れる。

 唯一の真実は、カネのみ。

 それが、大手ハウスのジャンケット・ルームのいい所だった。

 そして良平にとっては、その「真実」としてのカネがどれだけテーブルで回ってくれる(=「ロール・オーヴァー」)かが重要なのである。

 百田が送ったアイ・シグナルを、良平は了解した。

「数年前に似た方を存じ上げていたもので、失礼いたしました。お人違いでしたね。いや、博奕(ばくち)にお強い方って、そのうちに皆さん、お顔が似てくるものなのです。なんでだろう? 不思議です」

 良平は取り繕った。

 宮前・小田山・百田の一人ずつに、1枚100万HKD(1500万円)の価値をもつ赤色の大型ビスケットを手渡した。

「今回はこれを一人10枚にして帰る。泣きを見るなよ」

 宮前が息巻いた。

「うちはお客さまが勝ってお帰りになる方が、助かるのです」

 と良平。

「そうだったな。あんたんとこはコミッションで喰ってるんだった」

「大勝して、どんどんと回してください。精一杯サポートしますので。それじゃ、優子さん、テーブルのほうにご案内して」

 そう言うと、良平はオフィスに戻った。

 オフィスの大窓から見下ろす海はいつものように茶褐色だが、タイパ・コタイの街並みの上空には蒼穹が広がっている。

 35度は超しているのだろうか。

 タイパ・コタイ側は海風でしのげるが、マカオ旧市街や珠海あたりはたいへんな蒸し暑さのはずだ。

 良平はPCを開くとグーグルで検索した。

「百田 マカオ カジノ」では、該当人物が出てこなかった。

 当時別の名前を使っていたのか、それとも現在の「百田」の方が偽名なのか。

 良平は、十数年前の記憶を掘り起こす。

 マカオでは、2004年にサンズ・マカオが開業してから、ウイン・リゾート、MGMグランドと、ラスヴェガス資本のメガ・カジノが半島側で立て続けにオープンした。そして同時期それらラスヴェガスの資本を受けて立つように、地元および香港資本がスターワールド、グランド・リスボアと2007年までにオープンさせている。

 いずれもテーブル台数200卓を超す超大型のカジノ・ハウスだった。

 良平のオフィスが入っているこのホテルは半島から海を隔ててはいるものの、そういえば2007年のオープンである。

 ハウス間の過当競争となり、いずれ淘汰されるものが出てくる、と当時は予測された。ところがとんでもない。新規オープンの大手ハウスの収益は,右肩上がりの一方通行。その背景には、汲めども尽きぬ大陸の膨大な経済圏があった。

 一方、「マカオ戦争」における突出した前線となったジャンケット・ルームから日本関連のジャンケットが我先にと逃げ出したのが1999年。

 都関良平がマカオに着いた年だった。(つづく)

⇒続きはこちら 第6章:振り向けば、ジャンケット(11)

第6章:振り向けば、ジャンケット(9)

「宮前さんたち三人のフロント・マネーは一人1500万円。うちでは平均クラスだろ。それを6回転させると、2億7000万円のローリングとなる。太い打ち手なら、一人で1億円はもってくる。これが何回転もする。うちみたいな『個人営業』の業者でもそうなんだから、『部屋持ち』たちが一か月で300億円相当とか500億円相当とかを『消化』するのは、それほど困難なことじゃないんだ。おまけにうちみたいに『部屋持ち』たちの口座を借用するサブ・ジャンケットも居て、ローリングは増える。それでも万が一『消化』額が不足したときは、業者間で融通し合うこともある」

 良平はつづけた。

「まあ、うちは可能な限り多くの『部屋持ち』業者たちに顔を通しておきたい。頼まれたら、うちが多少苦しくても受ける。するとこちらが頼んだときには、無理をきいてくれる。中国でおこなうビジネスの基本は『信』なんだ。わたしがカネに詰まって身動きができなかったときには、彼らがずいぶんと手を差し伸べてくれた」

 リーマン・ブラザーズ破綻に端を発した世界金融危機のころ、良平を助けてくれたのは、一般に「いかがわしい」と思われている香港のジャンケット業者たちだったのである。

「日本じゃ、中国人とのビジネスは気をつけろ、連中は約束を守らない、なんて言われていますけれど」

 と優子。

「自分たちが約束を違(たが)えれば、連中も違えるさ。日本では、自分が過去に違約していることを棚に上げて、相手を非難する人たちが多くなってしまった。口約束でほとんどのことが決まるこの業界では、『信』の関係を築けるかどうかが、生き残れるか否かを決める」

「心に銘じておきます。うちみたいなサブ・ジャンケットと、大手のジャンケットとは、『持ちつ持たれつ』の関係なのですね」

「多くの場合、利害は相反するのに、ね」

「えっ、どうして利害は相反してしまうのでしょうか」

「『部屋持ち』は、ハウスと勝ち負け折半、と説明しただろ。つまり、客が負けてくれれば負けてくれるほど、取り分が多くなる。一方、わたしらのサブ・ジャンケットには、借りた口座から『ロール・オーヴァー(=ローリングの累計)』の一定割合が戻される。それがうちの収入だ」

「あっ、そうか。勝っている人の方が、当然にもローリングは進みますからね。極端な例では、100万HKDのドロップの人が一度回しただけで負け切ってしまえば、その『ロール・オーヴァー』は100万HKDにしかならないけれど、勝ったり負けたりしながら何回か回してくれれば、うちの会社のコミッションは増えるわけですから」

 優子の飲み込みは早かった。

 そこに宮前が現れ、二人の会話は中断した。

「どうも、お久し振りです」

 都関良平は営業用のつくり笑いを向けた。

「半年ぶりくらいとなるのか。前回は手ひどくやられたから、今回はリヴェンジじゃよ。百戦錬磨の精鋭メンバーもつれてきた。こっちが小田山(おだやま)さん」

 良平は40代後半の肥満した男に名刺を差し出した。名刺「交換」ではない。相手は良平の名刺を受け取るだけなのだから。

「そしてこっちが、俺の博奕(ばくち)の師匠の百田(ももた)さん」

 還暦を迎えたばかりの年頃か。額が禿げ上がった博奕づらである。

 ちょっと待て。良平に見覚えのある顔じゃなかったか。

「あんたは・・・」

 客に対して失礼なのだろうが、思わずそんな言葉が良平の口から飛び出した。

(つづく)

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第6章:振り向けば、ジャンケット(8)

「広東語はこれからだろうけれど、優子さんの北京語は、どれくらい通用しているの?」

 大学で中国語を専攻したからといっても、中国語での意思疎通ではまったく使いものにならない日本の若い連中が多いことは、これまでの経験から良平もよく承知していた。

「なんとか通じていると思いますよ。だめなときには漢字を書く、という奥の手がありますから。ほんとうに漢字は東アジアの共通言語なんだ、と思いました」

 優子が笑った。

 言語習得能力におけるひとつの重要な要素は、「度胸」である。

 優子は、この業界で使いものになるように育ってくれるのかもしれない。

 天馬會のケイジにデパートの紙袋を載せ、300万HKD(約4500万円)分のノンネゴシアブル・チップを引き出した。

 ケイジから出てきたのは、100万HKD(1500万円)の大型ビスケットが3枚のみ。良平は、ビスケット3枚と一緒に差し出された伝票にサインする。

 このジャンケット・フロアで使用される「ノンネゴシアブル(=ベット用の)・チップ」は、少額・多額を問わず長方形や楕円形をしていて、これを業者間では「チップ」とは言わずに「ビスケット」と呼ぶ慣わしだ。

 4500万円の大金が、たった3枚の大型ビスケットに形を変えた。

 毎度のことながら、良平にとっては、やっぱり笑ってしまいそうなバイインの瞬間だった。

 この1枚100万HKDのビスケットを渡された打ち手たちのは、勝負卓でそれをさらに少額のビスケットに換えて(カラー・ダウン)、博奕(ばくち)を打ち始めるのである。

「うちはよく口座を借りる『部屋持ち』業者を変えますよね。先週のお客さんのときには、『萬堂會』のケイジを使っていた。なんでなのですか。いつも同じ業者の方が、いろいろと融通が利くのじゃないか、と思うのですが」

「同じ業者のケイジを使っても、うちにとっては一向にかまわない。ただハウスとジャンケット業者の契約って、けっこう複雑だ。このハウスの『部屋持ち』業者たちには、一か月に何十億HKD分のノンネゴ(=ノンネゴシアブル・チップのこと)の消化が契約上義務づけられている」

「何十億HKD、って。1億HKDで15億円ですよ。その数十倍を一か月で消化する、って」

「『消化』とは、回した金額のことだ。つまり『ローリング』の総額が一か月で300億円とか500億円相当になればいい。ベットではノンネゴを使い、勝てばキャッシュ・チップで付けられる。そうすると勝負卓ではノンネゴの方が減っていき、キャッシュ・チップの方は打ち手の手元に増えていく。通常、VIPフロアじゃキャッシュ・チップでベットができない。それゆえ打ちつづけるつもりなら、手持ちのキャッシュ・チップでノンネゴを再購入する必要が生じるわけだ。その再購入のことを『ローリング』と呼ぶのは、もう学んだよね」

「ええ」

「『部屋持ち』たちは、ハウスとの契約で『ローリング』額が義務づけられることが多い」

「それが一か月で300億円分とか500億円分とかになるのですか?」

 優子の眼がまん丸くなった。

「宮前さんたちの持ち込みは、3人で300万HKD(4500万円)だよ。当たり前なら、これが6回転くらいはするだろ?」

「そうですね。いままでで大きかったお客さんなら、42回転させた方もいらっしゃいましたから」

「勝っていれば、そういうことも起こる。宮前さんたちは、300万HKDで6回のローリングとしても、1800万HKDだ。日本円でいくらになる?」

「2億7000万円です」

「ご名算」

 ジャンケット業者にはとっさの計算能力が必須だ。この点でも、優子は合格であろう。

(つづく)

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