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第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(16)

 こうである。

 ――子曰

 飽食終日、無所用心、難矣哉、不有博奕者乎、爲之猶賢乎已。

 毎日腹いっぱいメシを喰っているだけで、なにごとにも心を動かせない。困ったことである。博奕(ばくち)でもしていればいいものを。

 良平の(おそらく正しい)解釈では、以上のようになった。

 日本の国文学者の中には、「博奕」を「賭博・賭事」ではなくて、「双六(すごろく)」や「骰子(さいころ)遊び」と説明する者もいるのだが、バカか、と良平は思う。

 現在日本や中国と呼ばれる地域では、「双六」にせよ「骰子遊び」にせよ、太古の昔から「金品を賭する」ことによって成立してきた。つまり「賭博」以外のなにものでもなかろう。

――博奕(はくえき=ばくち)なる者あらざるや。

 まだアルコールの薬理が強烈に作用する頭で、良平は結局この言葉にたどり着く。

 ジャンケット事業は優子に売り渡し、断じてなにもしないのではなくて、博奕をしながら残りの人生を送る。

 失っても悔いが残らないのは、資産の半分ほどだろう。

 現在の為替交換率で5億円分もあれば、そしてそれを香港ドルでもって運用していれば、とんでもない贅沢でも望まない限り、余生を快適にしのげるはずだと良平は推察する。

 日本円では、まず駄目だ。

 行政府の意を受けた中央銀行が、紙幣を刷れるだけ刷って、国や民間の債権(国債・社債・PC等)を買い取りまくっていた。中央銀行が保有する膨大な株や債権を市場で売ることはほぼ不可能であるのだから、日本円は遅かれ早かれ紙くず同然となってしまう。これ、コトの道理。

 香港ドルは、人民元とではなくてUSドルとペッグしている。そこが強みだった。

 いずれコケるかもしれないが、しばらくの間USドルは世界の基調通貨の座を譲ることはあるまい。

 半分は、安全運用。こちらでギャンブルはしない。

 残った5億円分超のUSDを握りしめ、旅打ちに出掛ける。

 世界中のカジノを回る。

――不有博奕者乎、

 博奕なる者あらざるや。

 孔子さまが、そうおっしゃったのじゃ。

 自由度が高くて気に入った国には、口座を開設して現地通貨として残った(あるいは稼いだ)カネを入れておく。

 魅力的なアイディアだった。

 その魅力的なアイディアを思いつき、良平は再び苦しい眠りにおちる。

 瞼(まぶた)の裏を、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が駆け抜けた。

 枯れ木に囲まれた泥沼に、ちいさな蓮が可憐に咲いている。

――好花不常開

 好景不常在 (『何日 君再来』)

 きれいな花やきれいな景色は、必ず消滅する。

 あれは、マギーではなかったか。

――良平、こっちに来て。

 と囁きながら、そのマギーとおぼしき女性が、どんどんと遠ざかっていった。

 漆黒の闇に溶け込む寸前に、女性は良平に向かって振り返る。

 振り向けば、ジャンケットで身と心を削った初老の男が、そこにはいた。(了)

⇒続きはこちら 番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(1)

第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(15)

 ジャンケットとは、好むと好まざるとにかかわらず、泥水を飲む稼業である。

 誘惑だらけの世界でもあった。

 その気さえあれば、いくらでも悪くなれる。

 でも、通さなければならないスジ、というものは存在した。

 いや、良平が勝手にそう思ってきただけなのかもしれない。

 一歩踏み間違えると、奈落への坂を転げ落ちる危険と、常に同居していた。

 多くの同業者たちは、誘惑の甘い罠に絡めとられ、踏み外す。

 そうして、いつの間にか消えていった。

 自死した者もいる。殺された奴もいた。

 しかし恐ろしい噂が流れてきても、実際は生死不明がほとんどである。

 わたしも眠ろう。

 限界点が近づいているのを、良平は感じた。

 このオフィスで『三宝商会』の役員二人が並んでぶっ倒れているわけにもいくまい。

 良平はクロゼットから純毛の毛布を取り出すと、優子の上にそっと掛けた。

     *     *      *

 ほとんどの人にとって、大量のアルコール摂取は入眠を促す薬理作用があるのだろうが、都関良平の場合はそう簡単ではなかった。

 一応寝入る。しかし1時間ほども経つと、目覚めてしまうのである。

 そして再び、寝入るのが困難となった。

 アルコール依存が亢進しているのだろうか。

 この夜がもろにそうだった。

 目を瞑りながら、頭の中で去来する妄想が、追跡できたり拡散したり。

 苦しくてもいいから、眠りたい。

 この業界で20年間やってきた。

 もう充分だ、と良平は納得している。

 しかし、次になにをやるべきか。

 日本に行って、IR開業にかかわるのか。

 新型コロナが終息しても、本当に日本でIRのプロジェクトが実行されるかどうかはわからない。

 手を広げられるだけ広げたところにCOVID19が直撃した。ラスヴェガスの大手は足元が危なくなってきている。

 日本プロジェクトを自己資本と銀行融資でカヴァーするのは、もう不可能なのだろう。

 いやそもそも、LVS(ラスヴェガス・サンズ)ならソフトバンクの、MGMならオリックスのカネをあてにして、計画が練られてきたのである。あてにしていた先が、資金繰りに窮するようになってしまった。

 MGMは有利子負債だけですでに1兆6000億円相当あるから、もう突き進むしかあるまい。一旦停まれば腹を上に向けて浮いてしまう。

 LVS(SANDS CHINAを含む)の有利子負債は相対的にすくないので、新規事業から撤退すれば生き残れるかもしれない。だから日本プロジェクトには、手を出さないのだろう。

 もし日本のIRプロジェクトが、『IR実施法』の条文に書かれた文言のまま実施されるとしたなら、できるのはテーブル・ゲーム台つきの超大型パチンコ・ホールとなってしまう。

 そんなものの立ち上げに、良平はかかわりたくなかった。

 眠りを求める良平の頭の中を、とりとめのない思考が駆け巡る。

『論語』には、

 ――不有博奕者乎

 という言葉があった。(つづく)

⇒続きはこちら 第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(16)

第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(14)

「不思議なもので、そういうときに限って、負けるんだ。あるいは、ローリングが少ない打ち手たちばかり集まって、経費で足が出たりする」

 なぜ、と訊かれても困るのだが、良平の経験ではそうだった。

「持ち込むときは現金でも、勝ったからといって現金で持ち帰るお客さんて、ほとんどいないじゃないですか。デポジットにしておいて、次回のタネ銭とする方が多い」

 優子の舌の回りも怪しくなっている。

 胸の盛り上がりも揺れていた。

「ところが手持ちのキャッシュが薄いときって、現金を持ち帰りはしないのだが、至急海外の口座に振り込んでおいてくれ、なんていう打ち手が現れるものなんだよ」

 実際、良平が経験したことだった。

 あれはWYNN MACAUがオープンしてからしばらく経ったころ、2006年の秋だったか。日本の著名な公認会計士が大勝し、スイスの銀行口座に送るよう、良平に指示した。

 手持ち資金が不足していて、あの時良平は本当に往生してしまった。業界大手の某ジャンケットからカネを回してもらい、どうにか凌げたものである。

 ついでだが、当時はマカオのカジノ経由でスイスの銀行口座を使う日本人は多かった。現在なら、規制当局の審査が厳しくなって、スイスの銀行口座を使う人は、まずいないはずだ。

 カリブ海に浮かぶ島嶼国経由か、南太平洋ではヴァヌアツ経由あたりでカネが回っている。不思議なことに、規制が厳しいはずのアメリカ合衆国の自治領であるサイパンのガラパン経由などいうのも増えていた。

「こうしよう。わたしにくれる予定の『のれん代』を、優子さんとジャッキーが立ち上げるジャンケットの初期運転資金としなさい。わたしはその形では受け取らない。不要(プーヤオ)だ」

 新型コロナで低迷期といえども、諸投資をどう過少に評価しても、『三宝商会』がため込んできたものは10億円は下るまい。

 これは実質的に良平の個人資産だった。しばらく「喰いっぱぐれる」ということにはならない。

「えっ? それでいいのですか」

 と驚いた表情の優子。

 胸のふくらみだけでなく、もう身体全体が左右に揺れている。

 高純度のアルコールは、毛細血管まで浸みこんだようだ。

「タダというわけじゃない。商売になりだしたら、一定の配当を受け取るようにする。つまり、これはわたしからあなたへの投資だ。ちょっと飲み過ぎている。詳細は後日詰めよう」

 コニャック・グラスに残った液体を嚥下すると、良平は手洗いに立った。

 手洗いから戻ってくると、優子がソファの上でひっくり返っている。

 膝上丈のスカートがめくれ、白くて小さな下着が露わとなっていた。

 優子でもこういうことがあるのか。

 長くて細い脚の合わせ目をちょっといたずらしてみたい気が起きたのは、偽らざるところだった。

 しかし、踏ん張る。(つづく)

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第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(13)

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