ダスティ・ローデスがまさかのWWE入団――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第93回
NWAクロケット・プロ時代、ローデス(プロデューサー)とフレアー(NWA世界ヘビー級王者)はだれもが知る“犬猿の仲”だった。ふたりの近親憎悪のような人間関係については、フレアーが自伝『トゥ・ビー・ザ・マン』、ローデスも自伝『ダスティ』のなかでそれぞれのことばで語っている。いまとなってはすべてが“過去形”である。
WCWと契約しなかったローデスは1990年2月、フロリダ州タンパに新団体PWF(プロフェッショナル・レスリング・フェデレーション)を設立。ローカル版のテレビ番組制作とフロリダ州内でのツアーをスタートさせたが、この団体は約3カ月で消滅。ローデスはあっさりと団体経営をあきらめた。
ローデスとビンスの接触は、タレントと団体の契約交渉というよりは、どちらかといえば“個人事業主”ローデスのWWEへの身売りだった。
ビンスの父ビンス・マクマホン・シニアが健在だった時代、1970年代後半から1980年代前半にかけて、ローデスはマディソン・スクウェア・ガーデン月例定期戦にセミレギュラーとして出場していた。当時はまだTVアナウンサーだったビンスとローデスはじつは同い年で、個人的には仲がよかった。
ビンスは、キャリア22年、43歳(当時)のローデスを役職も特別待遇もない契約タレントとして雇用した。ローデス自身もWWEとの契約を現役生活の最後の“積み立て貯金”というふうにとらえた。
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