ひょうたんからKAIENTAIの大冒険――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第287回(1998年編)
若き日のキニョネスにレスリング・ビジネスのABCを教えた師匠は、WWEのエグゼクティブ・プロデューサーのひとりで、“1984体制”以降はタイタン・スポーツ社(WWEの親会社=当時)の役員としてビンス・マクマホンの知恵袋的な存在だったゴリラ・モンスーン。1990年代の日本のインディー・シーンで多大な影響力を持っていたキニョネスは、じつはアメリカのメジャー団体WWEの“心臓部”にもひじょうに強いコネクションを持っていた。
この前年の1997年、ザ・グレート・サスケをWWEにブッキングしたのもキニョネスだったが、アメリカ在住ではなくあくまでも日本とアメリカを往復しながらのスケジュール消化を希望したサスケよりも、WWEサイドはサスケのTVマッチの対戦相手としてプエルトリコからブッキングされたTAKAのほうに興味を持ち、結果的にTAKAだけがWWEと専属契約(3年)を交わした。
それがアメリカ人選手であっても、サスケやTAKAのような外国人選手であっても、WWEは未契約のレスラーに対しては有名、無名を問わずトライアウト(オーディション)の試合を義務づけているが、海援隊の3人はこのプロセスを通過せず、いきなりTVマッチに登場した。ビンスとWWE首脳部はキニョネスがブッキングした3人の日本人レスラーに即戦力としての評価を与えたのだった。
海援隊は翌日の3.31“ロウ”シラキュース大会(次週放映分の録画撮り)にも乱入し、またしてもTAKAを襲った。WWEでの3人の当初のリングネームはショー、トーゴー、テイオー。日本では海援隊として行動をともにしていたTAKAの敵にまわるという形で連続ドラマの初期モードが設定された。
TAKAと東郷はキニョネスとのコネクションからサンファンを生活の場に選び、テイオーはニューヨーク市内にアパートメントを借り、船木だけはすでにこの時点でアメリカへの永住を希望していた。(つづく)
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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