更新日:2022年08月22日 02:47
スポーツ

“殺人医師”ウィリアムスの運命を狂わせた格闘技戦――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第295回(1998年編)

 その日(1998年7月27日=カリフォルニア州アナハイム、アローヘッド・ポンド)、ウィリアムス対ガンの“ブロール・フォア・オール”トーナメント準決勝はTVマッチ第2試合にラインナップされていた。  第1ラウンドは、ウィリアムスがアマレス式のテイクダウンとパンチ攻撃で10-0のスコアでリード。第2ラウンドはガンがロープサイドで試合を進め、ウィリアムスがテイクダウンをトライするたびにガンがトップロープに腕をからませてこれをブロック。現在のMMAでは反則とされるこういったディフェンスがこの試合では有効だったため、ウィリアムスはポイント的にかなり損をした。  こういったこまかいかけひき、技術的な攻防をほとんど想定していなかったことがWWE版MMAのルール上の未熟さといってしまえばそれまでのことなのかもしれないが、ルールが不完全なまま格闘技マッチに挑んだウィリアムスとガンは勇敢でもあり、不運でもあった。  ウィリアスは3ラウンド開始直後、ガンへの両脚タックルからテイクダウンの体勢に入ったところで左ヒザを脱臼。しかし、そのまま試合を続行し、0分52秒、ガンの左フックをアゴにもらいまさかのノックアウト負けを食らった。  ガンはプロレスラーになる以前に“タフ・マン・コンテスト”ヘビー級部門で優勝の経験を持つ“酒場ボクサー”だった。  このまさかのKOシーンが原因でWWE内部での“ウィリアムス株”は暴落。9月からの“ロードショー公開”が予定されていたストーンコールドとのシングルマッチ・シリーズもペンディングとなった。  ウィリアムスは翌1999年、古巣・全日本プロレスに復帰。バート・ガンもその後、マイク・バートンの新リングネームで全日本プロレス所属となった。  ビンスは「だからシュートは嫌いなんだ」と吐き捨て、“ブロール・フォア・オール”という実験的な企画もこのトーナメント戦をいちど開催しただけでお蔵入りしたのだった。(つづく)
斎藤文彦

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