“殺人医師”ウィリアムスの運命を狂わせた格闘技戦――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第295回(1998年編)
“殺人医師”スティーブ・ウィリアムスが、ほんの短期間ではあったが、WWEの契約タレントだったことを記憶にとどめているファンはもうあまりいないかもしれない。
ウィリアムスは1980年代後半から90年代にかけて日本の2大メジャー団体、新日本プロレスと全日本プロレスでエース外国人選手として活躍した。全日本在籍時代は三沢光晴を下し三冠ヘビー級王座を獲得(1994年7月28日=東京・日本武道館)。記録よりも記憶に残るワンシーンとしては、小橋建太とのシングルマッチ(1993年8月31日=同)でみせた超高角度バックドロップが“歴史的名場面”としていまなお語り継がれている。
ニッポンの“最強ガイジン”として一世を風びしたウィリアムスは、ルーキー当時から公私にわたり親交のあったJRことジム・ロスWWE副社長のブッキングで1998年6月にWWEと正式契約。すべてがプランニングどおりに動いていたとすれば、同年9月には“史上最強の挑戦者”としてWWE世界ヘビー級王者“ストーンコールド”スティーブ・オースチンのまえに立ちはだかるはずだった。
やや蛇足になるが、ストーンコールドの本名(のちに改名)はじつはスティーブ・ウィリアムスで、1990年にダラスWCCWでデビューしたさいに“もうひとりのスティーブ・ウィリアムス”に敬意を表して“オースチン”をリングネームとして名乗ったという経緯がある。ふたりのスティーブはおたがいをリスペクトしていた。
いまとなっては信じられないようなエピソードではあるが、ビンス・マクマホンがプロレスラー対プロレスラーの“ブロール・フォア・オール”なる格闘技マッチを企画し、このトーナメント戦を月曜夜の連続ドラマ“ロウ・イズ・ウォー”の目玉商品としてプロデュースしたことがあった。ビンスがUFCをライバルとして意識しはじめたのがちょうどこのころだった。
“ブロール・フォア・オール”とは基本的にはレスリング対ボクシングの異種格闘技戦といった発想で、選手はボクシング用グローブを着用して3分3ラウンド制の試合をおこない、レスリング式のテイクダウンとボクシング式のパンチの合算でポイントを争うという試合形式。ウィリアムスの運命を狂わせたのはバート・ガンの“一発のパンチ”だった。
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